あなたの疲れは、あなたのものではない

身体知の書庫 令和8年2月

あなたの疲れは、あなたのものではない

田中彰吾と、身体が受け取る他者

今夜の一冊
自己と他者──身体性のパースペクティヴから
田中彰吾──東海大学教授。身体性の現象学と認知科学を架橋する研究者。メルロ=ポンティの間身体性を発達心理学・神経科学と結びつけた。
手がかり 1
間身体性
私の身体と他者の身体は最初から切り離されていない。身体状態は人から人へ移る
手がかり 2
身体の伝染
あくびが伝染するように、緊張も疲労も不安も身体を通じて伝わる
手がかり 3
身体の境界線
他者の身体状態を受け取っていることに気づき、自分と他者を区別する感覚
因果の流れ
他者の身体に触れる 間身体性で状態が伝わる 他者の疲れを自分のものとして感じる ラベル(HSP等)で説明しようとする 身体の境界線に気づく 自分の疲れと他者の疲れを区別できる

あくびは伝染する。では、緊張は? 疲労は? 不安は?

あくびは伝染する。

誰でも知っている。隣の席の同僚があくびをすれば、自分の口もつられて開く。電車の向かいに座った知らない人のあくびが、数秒後に自分の喉の奥を引っ張る。理由を聞かれても、うまく説明はできない。「つられた」としか言いようがない。

しかしこの「つられる」という現象を、もう少し丁寧に見てみたい。あくびが伝染するとき、あなたの身体に何が起きているか。あなたは「あくびをしよう」と決めたわけではない。相手のあくびを「見た」だけで、あなたの顎の筋肉が動き、横隔膜が下がり、肺が空気を吸い込んだ。他者の身体の動きが、あなたの身体を動かしたのだ。あなたの意志とは無関係に。

ここで問いを立ててみる。あくびが伝染するなら、緊張も伝染するのではないか。疲労も、不安も、身体の硬さも。

私は鍼灸師としてこの十数年、数えきれない身体に触れてきた。そのなかで否応なく気づかされたことがある。身体状態は、人から人へ移る。緊張した方に触れると私の肩が上がり、深くリラックスした方に触れると私の呼吸が深くなる。これは比喩ではない。私の筋肉に、実際に起きる。

身体は、伝染する。

このことを踏まえると、「人と会うと疲れる」という訴えが、違った色を帯びてくる。施術室でこの言葉を聞く頻度は、ここ数年で明らかに増えている。会社の飲み会のあと。友人との食事のあと。ときには、好きな人と過ごしたあとですら。そうした方の多くが「繊細だから」「HSPだから」と自分にラベルを貼っている。記事05で書いたように、そのラベルが身体の声を覆い隠してしまうことがある。

しかし本当の問いはもっと手前にある。あなたの疲れは、本当にあなたのものだろうか。

間身体性──身体と身体のあいだにあるもの

この問いに、現象学の側からひとつの足場を与えてくれたのが、田中彰吾の仕事だった。

田中彰吾。東海大学教授。身体性の現象学と認知科学を架橋する研究を続けている哲学者だ。とりわけ記事01で触れた市川浩やメルロ=ポンティの身体論を、発達心理学や神経科学の知見と結びつけながら展開している点が特徴的である。彼の著作『自己と他者──身体性のパースペクティヴから』は、身体を起点にして「自分」と「他者」の関係を根本から問い直す一冊だ。

田中がこの本の中で重要な概念として扱うのが、メルロ=ポンティに由来する「間身体性(intercorporéité)」という考え方である。

間身体性とは、簡単に言えば、私の身体と他者の身体は最初から切り離されていないということ。私たちは「まず自分の身体があって、それから他者と関わる」と思いがちだが、田中は逆のことを言う。自分の身体の経験は、生まれた最初の瞬間から他者の身体との関係の中で構成されている、と。

赤ん坊は、母親の表情を模倣する。泣いている赤ん坊を抱く母親の心拍は上がる。これは意図的な行為ではない。身体が、もうひとつの身体に応答しているのだ。田中はこの現象を、大人になっても消えない身体の根源的な在り方として記述している。私たちの身体は、自分だけの閉じたシステムではなく、つねに他者の身体と「あいだ」を持っている。

ここで少し立ち止まりたい。「間身体性」という概念を最初に読んだとき、私は臨床で日々体験していることに名前がついた気がした。施術中に相手の緊張が私の身体に流れ込んでくるあの感覚──それは気のせいではなく、間身体性が作動しているということだったのだ。

ミラーリング──身体状態の伝染

田中の議論をもう少し具体的に、神経科学の言葉で補ってみたい。

一九九〇年代、イタリアのパルマ大学でジャコモ・リゾラッティのグループが、マカクザルの前頭葉にある運動前野から、後に「ミラーニューロン」と呼ばれる神経細胞を発見した。この細胞は、サル自身が行為をするときだけでなく、他者が同じ行為をするのを「見ているだけ」でも発火した。見ることが、身体的に「やること」と同じ回路を使っていた。

人間の脳にも類似のシステムが存在すると考えられている。目の前の人が痛そうな顔をすると、自分の身体にも微かな不快が走る。誰かの笑顔を見ると、自分の口角が上がりかける。他者の行為を見る、ということは、自分の身体でその行為を「仮想的に再現する」ということでもある。

私はこの現象を、臨床の文脈で「ミラーリング」と呼んでいる。身体状態は、無意識のうちに他者に伝染する。緊張した身体は相手を緊張させ、リラックスした身体は相手の緊張をほどく。言葉を交わさなくても、握手ひとつ、視線ひとつで、身体と身体のあいだに何かが流れている。

田中の間身体性とリゾラッティのミラーニューロン。哲学と神経科学、まったく異なる経路からたどり着いた知見が、同じ場所を指し示している。身体は閉じていない。身体は、つねに他者に向かって開かれているか、あるいは他者から身を守るように閉ざされているか──そのどちらかだ。

「やさしい人ほど壊れる」の身体的メカニズム

ここで、冒頭の問いに戻りたい。なぜ人と会うと疲れるのか。

間身体性の観点から言えば、答えはこうなる。あなたの身体が、相手の身体状態を受け取っているからだ。

ただし、ここに重要な条件がある。身体が「閉ざされ」の状態にあるとき──つまり身体不合理が蓄積し、防御モードに入っているとき──ミラーリングは「受け取るだけ」の一方通行になりやすい。

記事04で書いた「疲れを知らない身体という嘘」と接続する話だ。疲労を感じ取れなくなった身体は、他者の緊張もまた気づかないまま溜め込んでいく。本人は「なぜこんなに疲れるのかわからない」と言うが、身体は理由を知っている。自分の疲れだけでなく、隣にいた人の疲れも引き受けているのだ。

「やさしい人ほど壊れやすい」という言い方を、ときどき耳にする。これは性格や心の問題として語られることが多いけれど、身体の側から見ると、少し違う景色がある。「やさしい」と言われる人の身体は、他者に対する間身体的な応答性が高い傾向があるのではないかと感じている。相手の微細な表情の変化、声の震え、姿勢のわずかな傾きを、自分の身体で受け取っている。それ自体は、人間が本来持っている身体の能力だ。

問題は、受け取ったものを「流す」ことができていないときに起きる。身体合理性が低下し、呼吸が浅く、横隔膜が硬くなっていると、受け取った他者の緊張が自分の身体に蓄積してしまう。ちょうど、水を受け止める器が、排水口を塞がれているような状態だ。水は溜まり続け、やがて器が溢れる。「人と会うと疲れる」という訴えは、この溢れかけた器の悲鳴なのではないかと思う。

sympathyの語源──共に苦しむ身体

ここで少し、言葉の話をしておきたい。

英語の sympathy(共感)は、ギリシア語の syn(共に)と pathos(苦しみ・感情)から成る。「共に苦しむ」が原義だ。compassion(慈悲・思いやり)もまた、ラテン語の com(共に)と pati(苦しむ)に由来する。

興味深いのは、これらの言葉がいずれも「身体的な苦しみの共有」を出発点にしていることだ。共感とは、もともと「頭で相手の立場を理解する」ことではなかった。「相手の苦しみが自分の身体に起きる」ことだった。語源が、田中の間身体性やミラーニューロンの知見と同じことを言っている。

日本語の「思いやり」も、「思い」を「遣る」──つまり気持ちを相手のほうへ「送る」という身体的な運動を含んでいる。「気が重い」「胸が痛む」「息が詰まる」。記事06で触れた暗在的身体の議論ともつながるが、日本語は他者との関わりを身体の言葉で語ってきた。

近代以降、共感は「心の働き」として理解されるようになった。認知的共感──相手の立場に立って考える能力。しかし語源が示しているのは、共感はもともと身体の出来事だったということだ。私たちは考えて共感しているのではない。身体が、共感している。

境界線の身体学

「人と会うと疲れる」方に、心理学ではしばしば「境界線(バウンダリー)を引きましょう」と助言する。これは一定の有効性を持つアプローチだろう。自分と他者を区別し、相手の感情に巻き込まれないようにする。

しかし田中の間身体性の議論を踏まえると、ここにひとつの根本的な問いが浮かび上がる。身体は、そもそも「境界線を引く」ことができるのだろうか。

間身体性が示しているのは、身体と身体のあいだには最初から明確な境界がない、ということだった。赤ん坊は母親の表情を自分の身体で再現し、大人になっても隣の人のあくびに身体が応答する。境界線とは、本来は流動的なものであり、「引く」と決めて引けるものではないのかもしれない。

ここが、身体からのアプローチが心理的なアプローチと経路を異にするところだ。「境界線を引く」のではなく、「受け取ったものを流せる身体を取り戻す」。呼吸が深く、横隔膜が自由に動き、肋骨が柔らかく広がる身体は、他者の身体状態を受け取ったあとに、それを自分の中に溜め込まない。水が器を通り抜けるように、受け取ったものが循環し、排出される。

心理学が「壁を作る」方向で解決を図るとすれば、身体のアプローチは「流れを回復する」方向で解決を図る。どちらが正しいかではない。経路の違いだ。ただ、壁を作ることで失われるものがあるとしたら──他者との間身体的なつながりそのものが閉ざされるとしたら──流れを回復するほうが、人間の本来の在り方に近いのではないかと、臨床で感じることがある。

自分を整えることが、最も利他的な行為である

ここで、ひとつの転回を書いておきたい。

ミラーリングは、他者の不快を受け取るだけの現象ではない。逆も起きる。

身体合理性が高い──つまり呼吸が深く、姿勢が重力に対して効率よく保たれ、「開かれ」の状態にある人の近くにいると、相手もまた身体がほどけていく。臨床でも、これは日常的に目撃する。施術に入る前に、まず私自身の身体を整える。呼吸を深くし、肩を下ろし、足裏で地面を感じる。そうしてから触れると、クライアントの身体は明らかに早くほどけ始める。言葉を一切交わさなくても。

田中の間身体性の議論を踏まえれば、これは当然のことだ。身体と身体は最初から繋がっている。私の身体の「快」のシグナルは、ミラーリングを通じて相手の身体にも伝わる。安全だ、緊張しなくていいのだ、という信号が、言語を介さずに身体から身体へ流れていく。

ここから、ひとつの原理が導かれる。

自分の身体を整えることは、自分のためだけの行為ではない。自分が「開かれ」の状態にあるとき、あなたの近くにいる人にとっても、安全な環境が創出される。あなたの呼吸が深くなれば、隣にいる家族の呼吸も、わずかに深くなるかもしれない。あなたの肩が下がれば、目の前の同僚の肩も、少しだけ下がるかもしれない。

自分を整えることが、最も利他的な行為である。

これは道徳的な標語ではない。間身体性とミラーリングという身体の仕組みから導かれる、因果的な帰結だ。

支える側が壊れるとき

最後に、もうひとつの風景を描いておきたい。

セラピスト、カウンセラー、看護師、介護士、教員、管理職。人を「支える」仕事に就いている方が、施術室に来ることがある。共通する身体的特徴がある。頸部の過緊張、浅い呼吸、胸郭の硬さ。そして、自分の身体の不調に驚くほど無自覚であること。

この方たちの身体に触れていると、先ほど書いた「排水口が塞がれた器」の状態が、より深刻な形で起きていることがわかる。他者のつらさを毎日受け取りながら、それを流す時間も方法も持てずにいる。専門用語では「共感疲労」と呼ばれるこの状態を、私は間身体性の過負荷として読んでいる。

支える側が壊れてしまうのは、その人の心が弱いからではない。身体が他者に対して開かれたまま、受け取ったものを循環させるケアを自分自身に対して行っていないからだ。「ケアする人がケアされていない」──この問題の根は、心理的なところだけでなく、身体的なところにもある。

田中彰吾が描いた間身体性は、他者とのつながりの美しさだけでなく、そのつながりに伴う身体的なコストをも照らし出す。つながることは、受け取ることでもある。受け取り続けるためには、流すことが要る。

あいだに立つ身体

田中の『自己と他者』を読み終えて、施術室に戻ったとき、少し見える風景が変わった気がした。

私の手が相手の身体に触れるとき、そこにあるのは「施術者の手」と「クライアントの身体」ではない。二つの身体の「あいだ」が、そこに立ち上がっている。その「あいだ」を通じて、緊張も安心も、不快も快も、流れていく。施術とは、このあいだを整える営みなのかもしれない。

人と会うと疲れる。それは、あなたの心が弱いからではない。あなたの身体が、他者の身体に応答する力を持っているからだ。その力は、本来は「つながり」のための力である。

ただ、つながりの力が自分を消耗させてしまうとき、必要なのは壁を作ることではなく、自分の身体を通る流れを回復させることではないかと思う。呼吸を深くする。肋骨を動かす。足裏で地面を踏む。それはあなた自身のためであると同時に、あなたの隣にいる誰かのためでもある。

田中彰吾は、身体を通じた他者との関わりを「間身体性」と呼んだ。メルロ=ポンティが切り拓いた問いを、発達心理学と神経科学の知見で深めながら。私はその概念を、施術室の中で、手のひらで感じている。

あなたの疲れは、あなただけのものではないかもしれない。そしてあなたが整えた身体の安らぎもまた、あなただけのものでは終わらない。

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