〈身〉が知っていること ── 市川浩、メルロ=ポンティ、そしてソマティクスの現在地

鍼を刺す瞬間に、指先が「読む」ものがあります。皮膚の抵抗、筋膜の張力、そのさらに奥にある、言葉にならない何か。17年間、3万人を超える方々の身体に触れ続けてきた私の指は、いつのまにか一種の読解装置のようになっていました。けれどもそれは、何を読んでいるのでしょうか。筋肉の硬さでしょうか。血流の滞りでしょうか。それとも、もっと別の何かでしょうか。

この問いに、ひとつの鮮やかな補助線を引いてくれたのが、哲学者・市川浩の『〈身〉の構造──身体論を超えて』でした。市川は、西洋哲学が長らく「精神」と「物体」に二分してきた人間の存在を、〈身〉(み)というひとつの概念で捉え直そうとしました。〈身〉とは、「身体」でも「心」でもなく、そのどちらでもある領域のことです。「身にしみる」「身もだえする」「身を投じる」──日本語には、精神と物質の境界を軽やかに越える〈身〉の表現が無数にあります。市川はそこに、西洋的な心身二元論では汲み尽くせない、身体の知の在り処を見ていたのかもしれません。

「身体が考える」という逆転

この「〈身〉の知」という感覚は、私のソマティクスの臨床経験と深いところで共鳴しています。たとえば、慢性的な肩こりに悩む方がいるとします。一般的には「凝りを揉みほぐす」ことが解決策だと考えられています。しかし施術後にコリが戻るのは、なぜでしょうか。それは、揉みほぐされたのが筋肉だけであり、その筋肉を「そのように使い続けている」身体の無意識的なパターン──身体図式──が変わっていないからです。マッサージは物理的な身体にアプローチしていますが、〈身〉にはまだ触れていないのです。

この点において、フランスの現象学者モーリス・メルロ=ポンティの洞察が重要な意味を持ちます。メルロ=ポンティは1945年の大著『知覚の現象学』において、身体を「世界を経験する主体」として位置づけました。身体は精神の「容れ物」ではなく、それ自体が思考し、知覚し、世界と交渉する存在なのだと。この命題を、私は臨床の現場で毎日のように目撃してきました。身体の緊張が解けた瞬間に、その方の表情が変わる。声のトーンが変わる。そして驚くべきことに、ものの考え方まで変わることがあるのです。これは「リラックスしたから気分が良くなった」という単純な話ではありません。身体の構造的な変化が、知覚そのものの在り方を変えてしまう、という現象なのです。

市川浩はメルロ=ポンティの思想を日本語の感覚で咀嚼し直しながら、独自の身体論を展開しました。なかでも私が惹かれるのは、「身体は道具ではなく、世界との接触面そのものである」という洞察です。私たちは身体を「使って」生きているのではなく、身体「として」生きている。この転換は、ソマティクスの根幹にある思想と、ほとんど同じことを言っているように思えます。

原感覚という羅針盤

もう少し具体的に踏み込んでみましょう。私が実践の中核に据えている概念に「原感覚」(Gen-Kankaku)というものがあります。これは、言語や感情が発生する以前──つまり「快い」とも「不快だ」とも名前をつける前の段階で──身体の深部に立ち上がる、純粋な物理反応のことです。拡張する感じ、温かさ、流れるような感覚。あるいは収縮する感じ、冷え、固着する感覚。このバイナリ・コード──快と不快──が、私たちの生存を根底から支えるナビゲーション・システムとして機能しています。

この原感覚の概念は、複数の学術的な知見と接続しています。アメリカの心理学者ユージン・ジェンドリンが提唱した「フェルトセンス」は、言葉にならない身体的な「意味の含み」として原感覚と重なります。ただしジェンドリンがフォーカシングという言語化のプロセスを重視したのに対し、私は言語以前の身体運動による直接的変容を志向する点で、少し道を異にしています。なぜなら、言葉にした瞬間に、何かが零れ落ちてしまうからです。言葉にしようとする過程(プロセス)も、一つの身体運動であり、この運動の中で今まで気がつけなかった現感覚が認識のスポットライトを浴びる。この過程は、somatic studioの身体の教養で特に重要視している点です。

この「言葉にすると零れ落ちるもの」について、市川浩は示唆的なことを述べています。市川は、身体の経験を言語化することの限界を認めながらも、その限界の「手前」にこそ、身体的な知が棲んでいると考えました。それは、ソムリエがワインを味わう時に感じている「あの感覚」──ベリーの果実味だとか、夏の風味だとか、タンニンの渋みだとかいう言葉に翻訳される以前の、まだ名前のない感覚──に似ているかもしれません。初心者は「おいしい」か「苦い」かしか言えないけれど、それは味覚の解像度が低いのではなく、言葉と感覚の接続が未だ育っていないということです。ここに、身体の教養──ソマティック・リテラシー──の核心があります。

「閉ざされ」の時代に

神経科学者アントニオ・ダマシオは、感情が意思決定に不可欠であることを「ソマティック・マーカー仮説」として提示しました。身体が発する微細な信号──胸がざわつく、胃が重い、背筋がすっと伸びる──それらが、理性だけでは到達できない判断の精度を支えているのだと。スティーヴン・ポージェスのポリヴェーガル理論もまた、自律神経系が意識よりも先に安全と危険を察知する「ニューロセプション」の存在を明らかにしています。これらの知見は、原感覚が単なる比喩やスピリチュアルな概念ではなく、生物学的な実体を持つ現象であることを裏づけてくれます。

さて、ここで私は、現代に生きる私たちの身体的状況について、率直に述べておかなければなりません。今の社会は、身体を「閉ざす」方向に強力な引力を持っています。デスクに縛りつけられた長時間労働、スマートフォンの画面に吸い寄せられる視線、SNSの通知に条件反射する神経系。これらは、交感神経を過剰に活性化させ、身体を防御モード──私が「閉ざされ」と呼ぶ状態──に閉じ込めてしまいます。閉ざされた身体は、感覚が鈍り、視野が狭まり、同じパターンの思考を繰り返す。J.J.ギブソンの生態心理学で言えば、環境が私たちに提供してくれている行為の可能性──アフォーダンス──を発見する能力が、著しく損なわれてしまうのです。

「何をしたらいいかわからない」「やる気が起きない」「毎日が同じことの繰り返しに感じる」──これらは精神的な問題のように見えて、実は身体的な問題であることが少なくありません。身体が閉ざされているから、世界からの誘いかけに気づけない。これは怠惰でも、能力の欠如でもなく、身体が発する防御信号に囚われた状態なのです。

〈身〉を開くということ

では、どうすれば「開かれ」の状態に移行できるのでしょうか。市川浩ならば、それを「〈身〉の目覚め」と呼んだかもしれません。メルロ=ポンティならば「知覚の回復」と言ったかもしれません。私はそれを「身体動態瞑想」(Kinetic Body Meditation)という実践に落とし込んでいます。快と不快の身体感覚を羅針盤として、意図的な身体運動を通じて「快」の信号を増幅させる技法です。

ここで重要なのは、「正しい姿勢」を教わることでも、「良い動き」をコピーすることでもないということです。それは外部から与えられたプロトコルであり、〈身〉の知には届きません。必要なのは、自分の身体が何を求めているかを、自分の感覚で探索することです。注意 × 感覚 × 運動 × 反復──この公式を通じて、運動野の可塑性が発動し、身体図式──無意識の運動パターン──が書き換わっていきます。これは、市川浩が「身体は世界との接触面」と言ったことの、実践的な展開に他なりません。

先日、ある方がセッション後にこう仰いました。「身体が変わったら、世界の見え方が変わりました」と。これは詩的な表現に聞こえるかもしれませんが、現象学的には極めて正確な記述です。知覚は身体を通じてのみ起こるのですから、身体が変われば、知覚される世界もまた変わる。これがメルロ=ポンティの哲学と、ソマティクスの実践が交差する地点であり、市川浩が〈身〉という一語に託した思想の核心ではないかと考えています。

市川浩は「身体論を超えて」という副題を掲げました。身体を単なる物理的対象として論じるのではなく、生きられた経験としての身体──まさに〈身〉──を捉えようとした。その試みは、ソマティクスが日々の実践で追求していることと、地下水脈でつながっているように思えてなりません。

あなたの〈身〉は、今、何を感じているでしょうか。この文章を読んでいる間に、肩に力が入っていないでしょうか。呼吸は浅くなっていないでしょうか。もしそうだとしたら、ほんの少しだけ、その力を抜いてみてください。そこから立ち上がってくる感覚──言葉にする前の、まだ名前のない、あの感覚──それこそが、あなたの〈身〉が知っていることなのかもしれません。

参考文献:市川浩『〈身〉の構造──身体論を超えて』(講談社学術文庫)/メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(みすず書房)/ユージン・ジェンドリン『フォーカシング』(福村出版)/アントニオ・ダマシオ『デカルトの誤り』/スティーヴン・ポージェス『ポリヴェーガル理論』/J.J.ギブソン『生態学的知覚システム』/田中彰吾『身体と魂の思想史』(講談社選書メチエ)

What the Body Already Knows: Ichikawa Hiroshi, Merleau-Ponty, and the Present Landscape of Somatics

In the moment a needle pierces the skin, my fingertips "read" something: the resistance of the dermis, the tension in the fascia, and beyond these, something that words can scarcely capture. Over seventeen years and more than thirty thousand patients, my fingers have become a kind of reading device. But what exactly are they reading? Muscle stiffness? Circulatory stagnation? Or something else entirely?

The philosopher Ichikawa Hiroshi offered a luminous thread to follow through this question. In his work "The Structure of 'Mi': Beyond Body Theory," Ichikawa attempted to reconceive human existence—which Western philosophy had long divided into "mind" and "body"—through a single Japanese concept: mi. Mi is neither "body" nor "mind," but rather the territory that encompasses both. Japanese is rich with expressions that effortlessly traverse the boundary between the physical and the spiritual: mi ni shimiru (to feel something deeply in one's being), mi modae suru (to writhe with one's whole self), mi wo toujiru (to throw oneself into something). In these phrases, Ichikawa perceived a dwelling place of embodied knowledge that Western mind-body dualism could never fully account for.

The Reversal: "The Body Thinks"

This sense of "knowledge held in the mi" resonates deeply with my clinical experience in somatics. Consider someone suffering from chronic shoulder tension. The conventional approach would be to knead and release the stiffness. Yet why does the tension return after treatment? Because the massage addresses only the physical muscle, leaving untouched the unconscious pattern—the body schema—that continues to use those muscles in that particular way. The massage touches the body, but it does not touch the mi.

Here, the French phenomenologist Maurice Merleau-Ponty's insight proves essential. In his 1945 magnum opus "Phenomenology of Perception," he positioned the body as "the subject through which we experience the world." The body is not a container for the mind—it is itself an entity that thinks, perceives, and negotiates with the world. I witness this proposition daily in my practice. The moment bodily tension releases, a person's facial expression changes. Their vocal tone shifts. And remarkably, even their way of thinking may transform. This is not simply "relaxation improves mood." It is the phenomenon of structural bodily change altering the very nature of perception itself.

Ichikawa digested Merleau-Ponty's philosophy through the sensibility of the Japanese language and developed his own body theory. What draws me most is his insight that "the body is not a tool but the very surface of contact with the world." We do not live "using" our bodies; we live "as" our bodies. This shift mirrors the foundational thought of somatics almost precisely.

The Compass of Gen-Kankaku

Let me press further into specifics. At the core of my practice lies a concept I call Gen-Kankaku (Primal Sensation): the pure physical reactions that arise in the deep body before language or emotion emerge—before we even name something "pleasant" or "unpleasant." A sense of expansion, warmth, flow. Or contraction, coldness, stagnation. This binary code—ease and discomfort—functions as the navigation system that undergirds our survival at its most fundamental level.

This concept intersects with multiple academic insights. Eugene Gendlin's "felt sense" overlaps with Gen-Kankaku as an embodied "meaning" that has not yet found words. However, while Gendlin emphasized the linguistic process of Focusing, I pursue direct transformation through pre-verbal bodily movement—because something is invariably lost the moment we put experience into words.

Ichikawa was suggestive on this very point. He acknowledged the limits of verbalizing bodily experience while arguing that it is precisely on "this side" of that limit where embodied knowledge resides. Imagine a sommelier tasting wine—before any description of berry fruit, summer breezes, or tannic finish, there exists a nameless sensation. A beginner might say only "tasty" or "bitter," but this reflects not a deficit of taste but an as-yet undeveloped connection between sensation and language. Here lies the heart of somatic literacy.

In an Era of "Closure"

Neuroscientist Antonio Damasio demonstrated through his "Somatic Marker Hypothesis" that subtle bodily signals—a flutter in the chest, heaviness in the stomach, a straightening of the spine—support decision-making precision that pure reason alone cannot achieve. Stephen Porges's Polyvagal Theory revealed the existence of "neuroception," by which the autonomic nervous system detects safety and danger before conscious awareness. These findings confirm that Gen-Kankaku is not metaphor or spiritual abstraction but a biologically grounded phenomenon.

I must speak frankly about the bodily situation of those of us living in the modern world. Contemporary society exerts a powerful gravitational pull toward what I call the "Closed State." Hours chained to desks, gazes drawn to smartphone screens, nervous systems conditioned to react to notification sounds—these chronically activate the sympathetic nervous system, locking the body in defensive mode. A closed body loses sensory acuity, narrows its field of vision, and repeats the same thought patterns. In the ecological psychology of J.J. Gibson, this means a severe impairment in our ability to discover the affordances—the action possibilities—that the environment offers us.

"I don't know what I want to do." "I have no motivation." "Every day feels the same." These may appear to be psychological issues, but they are often bodily ones. The body is closed, and so it cannot perceive the world's invitations. This is neither laziness nor lack of ability—it is a state of captivity to the body's own defense signals.

Opening the Mi

How, then, do we transition to an "Open State"? Ichikawa might have called it "the awakening of mi." Merleau-Ponty might have said "the recovery of perception." I have distilled it into a practice called Kinetic Body Meditation: using the body's sensations of ease and discomfort as a compass, amplifying signals of "ease" through intentional movement.

Crucially, this is not about learning "correct posture" or copying "good movement." Those are externally imposed protocols that cannot reach the mi. What is needed is an exploration, guided by one's own sensations, of what the body is seeking. Attention × Sensation × Movement × Repetition—through this formula, motor cortex plasticity is activated and the body schema rewrites itself. This is nothing less than the practical unfolding of Ichikawa's proposition that "the body is the surface of contact with the world."

Recently, a client said after a session: "When my body changed, the way I see the world changed too." This may sound poetic, but phenomenologically it is perfectly precise. Since perception occurs only through the body, when the body changes, the perceived world changes with it. This is where Merleau-Ponty's philosophy and somatic practice converge—and where, I believe, the thought that Ichikawa entrusted to the single word mi finds its living expression.

What is your mi feeling right now? While reading this, have your shoulders tensed? Has your breathing grown shallow? If so, try releasing just a little of that tension. The sensation that arises—before words, still unnamed—that may be exactly what your mi already knows.

References: Ichikawa Hiroshi, "The Structure of Mi: Beyond Body Theory" (Kodansha) / Merleau-Ponty, "Phenomenology of Perception" (Misuzu Shobo) / Eugene Gendlin, "Focusing" / Antonio Damasio, "Descartes' Error" / Stephen Porges, "The Polyvagal Theory" / J.J. Gibson, "The Ecological Approach to Visual Perception" / Tanaka Shogo, "The Intellectual History of Body and Soul" (Kodansha)

〈몸〉이 이미 알고 있는 것 ── 이치카와 히로시, 메를로-퐁티, 그리고 소매틱스의 현재

침을 놓는 순간, 손끝이 '읽는' 것이 있습니다. 피부의 저항, 근막의 장력, 그리고 그 너머에 있는 말로 표현할 수 없는 무엇. 17년간 3만 명이 넘는 분들의 몸에 손을 대면서, 제 손가락은 어느새 일종의 해독 장치가 되어 있었습니다. 하지만 대체 무엇을 읽고 있는 것일까요? 근육의 경직? 혈류의 정체? 아니면 그보다 훨씬 깊은 무언가?

이 물음에 하나의 선명한 보조선을 그어준 것이 철학자 이치카와 히로시의 『〈몸〉의 구조──신체론을 넘어서』였습니다. 이치카와는 서양 철학이 오랫동안 '정신'과 '물체'로 이분해 온 인간의 존재를, 일본어 고유의 개념인 '미'(身)라는 하나의 말로 다시 파악하고자 했습니다. '미'는 '신체'도 '마음'도 아니며, 그 둘 모두를 아우르는 영역입니다. '미니 시미루'(가슴 깊이 스며든다), '미모다에 스루'(온몸으로 몸부림친다), '미오 토우지루'(몸을 던진다)──일본어에는 정신과 물질의 경계를 가볍게 넘나드는 '미'의 표현이 무수히 있습니다. 이치카와는 그 안에서, 서양적 심신 이원론으로는 다 담을 수 없는 '몸의 앎'이 거하는 곳을 보았을 것입니다.

'몸이 생각한다'는 역전

이 '〈몸〉의 앎'이라는 감각은 제가 소매틱스 임상에서 경험해 온 것과 깊은 곳에서 공명합니다. 예를 들어, 만성적인 어깨 결림으로 고생하는 분이 있다고 합시다. 일반적으로는 '뭉친 곳을 풀어주는 것'이 해결책이라고 생각합니다. 그런데 시술 후 결림이 되돌아오는 것은 왜일까요? 그것은 풀어진 것이 근육뿐이며, 그 근육을 '그렇게 계속 사용하게 하는' 무의식적 패턴──신체 도식──이 변하지 않았기 때문입니다. 마사지는 물리적 신체에 접근했지만, 〈몸〉에는 아직 닿지 못한 것입니다.

이 지점에서, 프랑스 현상학자 모리스 메를로-퐁티의 통찰이 중요한 의미를 갖습니다. 메를로-퐁티는 1945년 대작 『지각의 현상학』에서 신체를 '세계를 경험하는 주체'로 자리매김했습니다. 신체는 정신의 '그릇'이 아니라, 그 자체가 사유하고, 지각하고, 세계와 교섭하는 존재라고. 이 명제를 저는 임상 현장에서 매일 목격해 왔습니다. 몸의 긴장이 풀리는 순간 표정이 변합니다. 목소리 톤이 달라집니다. 그리고 놀랍게도 사고방식까지 변하는 일이 있습니다. 이것은 단순히 '릴랙스해서 기분이 좋아졌다'는 이야기가 아닙니다. 몸의 구조적 변화가 지각 그 자체의 양상을 바꿔버리는 현상인 것입니다.

이치카와는 메를로-퐁티의 사상을 일본어의 감각으로 재해석하면서 독자적인 신체론을 전개했습니다. 그중에서도 제가 끌리는 것은 '몸은 도구가 아니라, 세계와의 접촉면 그 자체'라는 통찰입니다. 우리는 몸을 '사용하여' 살고 있는 것이 아니라, 몸'으로서' 살고 있다. 이 전환은 소매틱스의 근간을 이루는 사상과 거의 같은 말을 하고 있는 것처럼 보입니다.

원감각이라는 나침반

좀 더 구체적으로 들어가 보겠습니다. 제가 실천의 핵심에 두고 있는 개념으로 '원감각'(Gen-Kankaku)이라는 것이 있습니다. 이것은 언어나 감정이 발생하기 이전──'쾌적하다'거나 '불쾌하다'라고 이름 붙이기 전 단계에서──몸의 깊은 곳에서 일어나는 순수한 물리적 반응입니다. 팽창하는 느낌, 따뜻함, 흐르는 감각. 혹은 수축하는 느낌, 차가움, 고착되는 감각. 이 이진 코드──쾌와 불쾌──가 우리의 생존을 근저에서 지탱하는 내비게이션 시스템으로 기능하고 있습니다.

이 원감각 개념은 여러 학술적 지견과 연결됩니다. 미국의 심리학자 유진 젠들린이 제창한 '펠트 센스'는 아직 말이 되지 않은 신체적 '의미의 함축'으로서 원감각과 겹칩니다. 다만 젠들린이 포커싱이라는 언어화 과정을 중시한 반면, 저는 언어 이전의 몸의 움직임을 통한 직접적 변용을 지향한다는 점에서 약간 다른 길을 갑니다. 왜냐하면 말로 표현하는 순간, 무언가가 빠져나가 버리기 때문입니다.

이 '말로 하면 빠져나가는 것'에 대해 이치카와는 시사적인 것을 말했습니다. 그는 몸의 경험을 언어화하는 것의 한계를 인정하면서도, 바로 그 한계의 '이쪽'에 몸의 앎이 살고 있다고 생각했습니다. 소믈리에가 와인을 맛볼 때 느끼는 '그 감각'──베리의 과실미라든지, 여름의 풍미라든지, 타닌의 떫은맛이라든지 하는 말로 번역되기 전의, 아직 이름 없는 감각──과 비슷할지 모릅니다. 초보자는 '맛있다' 아니면 '쓰다'밖에 말하지 못하지만, 이는 미각의 해상도가 낮은 것이 아니라 말과 감각의 연결이 아직 자라지 않은 것입니다. 여기에 '몸의 교양'──소매틱 리터러시──의 핵심이 있습니다.

'닫힘'의 시대에

신경과학자 안토니오 다마지오는 '소매틱 마커 가설'을 통해, 미세한 몸의 신호──가슴이 두근거리는 것, 위가 무거운 것, 등이 곧게 펴지는 것──가 이성만으로는 도달할 수 없는 판단의 정확성을 지탱한다는 것을 보여주었습니다. 스티븐 포지스의 다미주신경 이론도 자율신경계가 의식보다 먼저 안전과 위험을 감지하는 '뉴로셉션'의 존재를 밝혔습니다. 이러한 지견들은 원감각이 단순한 비유나 영적 개념이 아니라, 생물학적 실체를 가진 현상임을 뒷받침해 줍니다.

이제 현대를 살아가는 우리의 몸 상태에 대해 솔직히 말해야 합니다. 지금 사회는 몸을 '닫히게' 하는 강력한 인력을 가지고 있습니다. 책상에 묶인 장시간 노동, 스마트폰 화면에 빨려 들어가는 시선, SNS 알림에 조건반사하는 신경계. 이것들은 교감신경을 과도하게 활성화시켜 몸을 방어 모드──제가 '닫힘'이라 부르는 상태──에 가두어 버립니다. 닫힌 몸은 감각이 무뎌지고, 시야가 좁아지며, 같은 패턴의 사고를 반복합니다. J.J. 깁슨의 생태심리학으로 말하면, 환경이 제공하는 행위의 가능성──어포던스──을 발견하는 능력이 현저히 손상되는 것입니다.

'뭘 하고 싶은지 모르겠다.' '의욕이 생기지 않는다.' '매일이 같은 것의 반복처럼 느껴진다.' 이것들은 정신적 문제처럼 보이지만, 실은 몸의 문제인 경우가 적지 않습니다. 몸이 닫혀 있으니, 세계의 초대를 알아차리지 못하는 것입니다. 이것은 게으름도, 능력 부족도 아닌, 몸이 보내는 방어 신호에 사로잡힌 상태입니다.

〈몸〉을 여는 것

그렇다면 어떻게 하면 '열림'의 상태로 이행할 수 있을까요? 이치카와라면 이를 '〈몸〉의 각성'이라 불렀을지 모릅니다. 메를로-퐁티라면 '지각의 회복'이라 했을 것입니다. 저는 이를 '신체동태명상'(Kinetic Body Meditation)이라는 실천으로 구체화했습니다. 쾌와 불쾌의 신체 감각을 나침반 삼아, 의도적인 몸의 움직임을 통해 '쾌'의 신호를 증폭시키는 기법입니다.

여기서 중요한 것은, '바른 자세'를 배우는 것도, '좋은 움직임'을 따라 하는 것도 아니라는 점입니다. 그것은 외부에서 주어진 프로토콜이며, 〈몸〉의 앎에는 닿지 않습니다. 필요한 것은 자신의 몸이 무엇을 원하는지를, 자신의 감각으로 탐색하는 것입니다. 주의 × 감각 × 운동 × 반복──이 공식을 통해 운동피질의 가소성이 발동하고, 신체 도식──무의식의 운동 패턴──이 다시 쓰입니다. 이것은 이치카와가 '몸은 세계와의 접촉면'이라 한 것의 실천적 전개에 다름 아닙니다.

얼마 전 한 분이 세션 후에 이렇게 말씀하셨습니다. "몸이 바뀌니까, 세상이 보이는 방식이 바뀌었습니다." 이것은 시적인 표현처럼 들릴 수 있지만, 현상학적으로는 극히 정확한 기술입니다. 지각은 몸을 통해서만 일어나는 것이니, 몸이 바뀌면 지각되는 세계도 바뀐다. 이것이 메를로-퐁티의 철학과 소매틱스의 실천이 교차하는 지점이며, 이치카와가 '미'라는 한 글자에 맡긴 사상의 핵심이 아닐까 생각합니다.

당신의 〈몸〉은 지금 무엇을 느끼고 있습니까? 이 글을 읽는 동안, 어깨에 힘이 들어가지는 않았습니까? 호흡이 얕아지지는 않았습니까? 만약 그렇다면, 아주 조금만 그 힘을 빼보세요. 거기서 일어나는 감각──말이 되기 전의, 아직 이름 없는, 그 감각──바로 그것이 당신의 〈몸〉이 이미 알고 있는 것일지도 모릅니다.

참고문헌: 이치카와 히로시 『〈몸〉의 구조──신체론을 넘어서』(고단샤) / 메를로-퐁티 『지각의 현상학』(미스즈서방) / 유진 젠들린 『포커싱』 / 안토니오 다마지오 『데카르트의 오류』 / 스티븐 포지스 『다미주신경 이론』 / J.J. 깁슨 『생태학적 지각 시스템』 / 다나카 쇼고 『몸과 영혼의 사상사』(고단샤)

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