「自分がわからない」のは、頭のせいではない

身体知の書庫 令和8年2月

「自分がわからない」のは、頭のせいではない

千葉雅也と、センスの身体性

今夜の一冊
センスの哲学
千葉雅也──哲学者・作家。「センスとは直観的にわかること」と定義し、身体的な知覚との接続を論じた。2024年刊。
手がかり 1
センス
深く考えなくてもわかってしまう直観的な知。身体が開かれているとき、自然に立ち上がる
手がかり 2
ラベルと実感の乖離
MBTI、HSP、エニアグラム──ラベルは増えても「わかった」実感が生まれない構造
手がかり 3
身体の閉ざされ
感じることを後回しにしている身体の状態。肋骨の動きが乏しく、呼吸が浅い
因果の流れ
ラベルの蓄積 「わかった」実感が生まれない 身体が閉ざされている 直観(センス)が働かない 身体を開く 感じる力が戻る 「自分」がそのつど立ち上がる

ラベルは増えた。しかしラベルは、自分を知ったという実感をもたらさなかった。

「自分がわからない」という方がいる。

少なくない。私の臨床では、肩こりや腰痛よりもはるかに多く聞く言葉かもしれない。もちろん「自分がわからないんです」と直接おっしゃるわけではないことのほうが多い。「やりたいことが見つからない」「何を選んでもしっくりこない」「転職しようか迷っているけど、本当に自分が何をしたいのかがわからなくて」。そういう言葉の底に、同じひとつの困惑が沈んでいる。

そうした方の身体に触れる。肋骨の動きが乏しく、呼吸が胸の上のほうだけで行われている。頸椎から肩にかけてまるでコンクリートのように硬い方もいる。腹部は緊張して、内臓の蠕動が感じ取りにくい。個人差はあるけれど、全体として「感じること」を身体が後回しにしているように見える。閉ざされ、と私は呼んできた状態だ。

不思議なのは、そうした方の多くが、自分を理解しようとすることに非常に熱心であることだった。ストレングスファインダーを受け、MBTIを調べ、HSP診断をやり、エニアグラムのタイプも知っている。自己分析のフレームワークは豊富に持っている。にもかかわらず、「自分がわからない」。

ラベルは増えた。しかしラベルは、自分を知ったという実感をもたらさなかった。ここに何かがある、と感じたのは、施術のベッドの上で幾度も繰り返されたそうした場面からだった。

二〇二四年に出版された一冊が、この臨床的な直感にひとつの回路を開いてくれた。千葉雅也『センスの哲学』。哲学者であり作家でもある千葉が、「センスとは何か」を正面から論じた本だ。

センスという言葉にはトゲがある。千葉自身もそう書いている。「センスがいい」と言われると嬉しいけれど、「センスが悪い」と言われると、努力では覆せない何かを否定されたような気がする。だからこそ、この言葉は日常では頻繁に使われるわりに、哲学的にはあまり正面から扱われてこなかった。

千葉はそこに踏み込む。そして最初の定義として、こう述べる。センスとは「直観的にわかる」ことだ、と。

直観的にわかること

「直観的にわかる」。これは、深く考えて分析した結果わかるのではなく、パッとわかるということだ。千葉はこれを丁寧に展開している。ご飯を食べに行く店を選ぶとき、いちいち論理的に比較検討するのではなく、「なんとなくここ」と決める。りんごを見れば、どういう果物かわかる。話の意味は、パッとわかっている。

千葉の言葉を借りるなら、「深く考えなくてもわかっている、わかってしまう」こと。直観(インテュイション)とは古くからの哲学の概念だが、千葉はそれを芸術論から日常の選択まで横断して使えるように拡張している。

ここで私が立ち止まったのは、「直観的にわかる」という言葉が、臨床で日々目撃していることと重なったからだ。

身体が開かれた状態の方は、自分が何を心地よく感じ、何を不快に感じるかを、説明はできなくても「わかっている」。施術後に肋骨が緩み、呼吸が深くなったとき、「あ、なんかすっきりしました」と言う方がいる。何がすっきりしたのか、なぜすっきりしたのかは説明できない。でも、身体が「わかっている」。

これはまさに、千葉が言う「直観的にわかる」の一例ではないかと思う。

一方、閉ざされた身体は、この直観が鈍っている。快なのか不快なのかが感じ取りにくくなっている。だから「直観的にわかる」ことができず、代わりにラベルを集める。MBTI、HSP、エニアグラム。それらは論理的な分析装置であって、直観ではない。直観が失われたところに分析を持ち込んでも、「わかった気」にはなれても、「わかった」という実感には届かない。

「意味以前」の段階──原感覚とセンス

千葉がさらに深く掘り下げるのは、センスの中に「意味以前の段階」があるという指摘だ。

センスの良い人は、ものを選ぶとき、いきなり「意味」から入るのではない。素材を集め、組み合わせ、並べてみる。意味が確定する前の、いわば「手触りの段階」がある。千葉はこれを「量」と呼ぶ。さまざまなものに触れ、食べ、見て、聴いて、ビッグデータのように蓄積されていくもの。蓄積があるからこそ、直観的な判断ができるようになる。

この「意味以前」という概念に触れたとき、私は自分がずっと使ってきた「原感覚」という言葉を思い出した。

原感覚とは、身体を構成するすべてのシステム──筋肉、内臓、神経、細胞──の物理的状態が発する情報のことだ。快と不快のバイナリ・コードで作動する。身体合理性が高いとき「快」が立ち上がり、不合理な状態では「不快」が立ち上がる。原感覚は、本人が認識しているかどうかに関わらず、常に立ち上がっている。心臓が疲労していれば、気づいていなくても不快は立ち上がっている。

原感覚は、言語化以前の情報だ。「意味」にはまだなっていない。名前もない。ただ、快か不快かという身体の傾きだけがある。

千葉のセンス論で言えば、原感覚はまさに「意味以前の段階」に位置する。私たちは日々、膨大な原感覚を受け取っている。それは身体が蓄積してきた「量」そのものだ。その蓄積が厚い人は──つまり身体合理性が高く、原感覚を受け取れている人は──「直観的にわかる」。選べる。決められる。「自分がわかる」。

逆に言えば、原感覚が届かなくなった人は、「直観的にわかる」ことができない。意味以前の層が閉ざされているからだ。残されるのは、ラベルを使った分析だけ。「自分はHSPだから」「MBTIでINFPだから」──それは分析としては正しいかもしれない。でも千葉の枠組みで言えば、それは「センスで選んだ」のではなく、「論理で導いた」にすぎない。

自分探しという思考の檻

ここで、記事10で書いた「思考の檻」の話と接続したい。

自分がわからないとき、人は自分を探す。自己分析、適性検査、カウンセリング、自分史の振り返り、ジャーナリング。どれも悪いことではない。しかし身体が閉ざされた状態でそれらを行うと、千葉が指摘する「意味以前の段階」がごっそり抜け落ちたまま、意味の操作だけが続く。「私は何がしたいのか」「私の強みは何か」「私はどんな人間か」──記号が記号を生み、答えらしきものが出ても実感が伴わない。

千葉は面白いことを言っている。センスの良し悪しの「向こう側」に、「アンチセンス」があると。センスの枠組みそのものが無効になる場所。私はこれを読んだとき、自分探しの「向こう側」を連想した。

「自分がわからない」と苦しんでいる方は、「自分」を、発見すべき正解のように思っている場合がある。どこかに「本当の自分」があって、それを見つければ迷いが消える、と。しかし千葉の議論に即して考えると、センス──直観的にわかること──は固定された答えではない。日々の「量」の蓄積から立ち上がる、そのつどの直観だ。

同じように、「自分」も固定された実体ではないのではないか。身体が開かれた状態で世界と関わるとき、「今の自分にとって心地よいこと」「今の身体が向かいたい方向」が、そのつど立ち上がる。それは発見するものではなく、その瞬間瞬間に生成されるものだ。

記事01で触れた市川浩は、身体を「精神でも物質でもない〈身〉」と呼んだ。記事09で取り上げたギブソンのアフォーダンスもまた、身体と環境が出会う場に「そのつど立ち上がる行為の可能性」だった。千葉のセンスもまた、固定された属性ではなく、そのつどの関わりの中に生まれる。「自分」もまた、そのように考えることができるのではないか。

身体が「選ぶ」を取り戻すとき

千葉はセンスの核心に「選ぶ」ことを置いている。日常の選択──お店を選ぶ、服を選ぶ──から芸術における素材の選択まで、センスは「選ぶ」行為に現れる。

臨床で起きることも、ある意味では「選ぶ」力の回復だ。

施術を重ねるなかで、身体合理性が徐々に高まっていくと、あることが起きる。それまで「何が食べたいかわからない」と言っていた方が、「今日はなんか魚が食べたいです」と言い出す。「何がしたいかわからない」と言っていた方が、「なんとなく散歩したくなって、いつもと違う道を歩いてみました」と報告してくれる。

劇的な変化ではない。ラベルが見つかったわけでもない。ストレングスファインダーの結果が変わったわけでもない。ただ、直観的に「選ぶ」ことが、少しずつできるようになっている。千葉の言葉で言えば、センスが回復している。私の言葉で言えば、原感覚が届き始めている。

ここに、自分探しとは異なる回路がある。自分を「見つける」のではなく、身体が「選ぶ」ことを通じて、自分がそのつど「生成される」。快と不快の微細な差異を感じ取れる身体が、日々の選択の中で、「これが今の私だ」という実感を静かに積み上げていく。

senseの語源──感覚と意味の交差点

千葉も触れているが、英語のsenseという単語は、「感覚」と「意味」の両方を指す。a sense of humor(ユーモアのセンス)は直観的な判断力であり、make sense(意味をなす)は事柄が了解できることを言う。ひとつの単語が、感覚と意味をまたいでいる。

日本語に訳すとこの二重性が見えにくくなる。「感覚」と「意味」は別の言葉に分かれてしまう。しかしsenseの語源に立ち返れば、感覚と意味はもともと同じ根を持っていた。「感じること」と「わかること」は、ひとつの行為の異なる側面だった。

これは大沼理論の根幹に触れる話だ。身体の原感覚──快と不快──を感じ取ることは、同時に、自分にとっての意味を受け取ることでもある。「この仕事は自分に合っている」という実感は、論理的な分析から来るのではなく、身体が発する快のシグナルから来る。senseが感覚と意味を同時に指しているのは、偶然ではない。身体がその両方の源だからだ。

近代以降、私たちは感覚と意味を分離してしまった。意味は頭の中で処理するもの、感覚は身体が受け取るもの、と。しかし身体が閉ざされ、感覚が鈍ると、意味もまた空転する。「自分の人生に意味が感じられない」と語る方の身体に触れると、原感覚が届いていないことが感じられるという経験を私は何度もしてきた。意味を取り戻すためには、まず感覚を取り戻さなければならない。senseの二重性が示しているのは、まさにそのことではないか。

「量」としての身体経験

千葉はセンスの形成に「量」の蓄積が不可欠だと論じている。さまざまなものに触れ、食べ、見て、聴いて、身をもって経験を重ねること。その経験の「量」が、いつしか直観的な判断力──センス──になっていく。

ここで思い出すのは、身体における「変容の公式」だ。注意 × 感覚 × 運動 × 反復。快を指標とした瞑想的な運動と感覚の反復が、運動野の可塑性を介して身体図式を書き換えていく。これもまた「量」の話だ。一回のセッションや一回の気づきで変わるのではなく、日々の実践の蓄積が身体を変えていく。

千葉は芸術の領域でこの「量」を論じている。私は身体の領域で同じ原理を見ている。どちらも、「量」の蓄積なしに「質」の跳躍は起きない、ということを言っている。

自分探しの難しさは、「質」を一足飛びに求めるところにあるのかもしれない。「正解の自分」を一発で見つけようとする。しかし千葉のセンス論も、臨床の経験も、同じことを示唆している。「量」を積みなさい、と。身体で経験しなさい、と。頭で探すのではなく、身体で触れなさい、と。

「自分」は関節の中にある

最後に、ひとつ私自身が感じていることを書いておきたい。

「自分がわからない」という方に、私は「自分を探さなくていい」とよく言う。探すものではないと思うからだ。

千葉の議論を経た今、もう少し丁寧に言えるようになった気がする。自分とは、固定されたラベルでも、発掘すべき宝物でもない。身体が世界と出会うそのつどの接点に、立ち上がるものだ。肋骨が動いて呼吸が深まったとき、足裏が地面をしっかり踏んだとき、指先がコーヒーカップの温かさを感じ取ったとき──そうした微細な「快」の積み重ねが、「これが私だ」という実感の厚みを作る。

千葉はセンスを「直観的にわかること」と定義した。私はそこに「身体的にわかること」を重ねたい。論理ではなく、ラベルでもなく、身体がパッとわかる。そのためには、身体が「わかる」ことのできる状態にあることが前提になる。

「自分がわからない」のは、あなたの知性が足りないからではない。自分探しの方法が間違っているからでもない。身体が閉ざされて、直観の回路──千葉がセンスと呼び、私が原感覚と呼ぶもの──が鈍くなっているだけかもしれない。

道は、頭ではなく身体から始まる。それはいつもと同じ結論だけれど、千葉雅也の『センスの哲学』は、その結論にもうひとつの言語を与えてくれた。「自分がわからない」のは、センスが閉ざされているということだ。そしてセンスは、千葉も言うように、変えることができる。

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