「繊細さん」はどこへ行く――ピーター・ラヴィーンと、名前がつく前の身体の声
「私、HSPなんです」。施術室でこの言葉を聞く回数が、ここ数年で明らかに増えました。あるいは「アダルトチルドレンだと思うんです」「自己肯定感が低くて」。来てくださる方がご自分のことをそう紹介される。その言葉の裏にある苦しみは本物だし、名前がついたことで楽になったという気持ちもよくわかる。私になんとかわかりやすく、膨大な悩みの中から、苦渋の思いで一掴みに圧縮し、お伝えくださった言葉なのだと感じています。
でも、身体に触れていると、少し違う風景が見えてくるんです。名前がつく前から、その身体はずっと何かを訴えていた。名前がついたあとも、身体の訴えは変わっていない。むしろ名前がついたことで、身体の声がもう一枚のフィルター越しになっている方もいる。ラベルを貼ると安心するけれど、ラベルの下で身体はまだ凍っている――そんなことを感じることが少なくないのです。
ピーター・ラヴィーンの『ソマティック・エクスペリエンシング入門――トラウマを癒す内なる力を呼び覚ます』を初めて手にしたのは、鍼灸師としての臨床に限界を感じ始めていた頃でした。鍼を打てばコリは緩む。でも、二週間後にはまた同じ場所が固まって戻ってくる。なぜ戻るのか。その「なぜ」に身体の側から答えを出そうとしていたとき、この本に出会いました。ラヴィーンはNASAのストレスコンサルタントを務めた生理学者で、人間の身体に残るトラウマの痕跡を、動物行動学や神経科学の視座から解き明かした人です。正直に言うと、読んだときの第一印象は「ああ、これは自分が施術室で手に感じていたことと同じだ」でした。多くの方も同じような出会いをしているんではないかなあ。
ラヴィーンの中核的な洞察は、きわめてシンプルです。トラウマは出来事の記憶ではなく、身体に凍結したエネルギーである。野生動物は捕食者に襲われたあと、全身をブルブルと震わせてそのエネルギーを放出する。しかし人間は、社会的な抑制――「泣くな」「大丈夫だろう」「しっかりしなさい」――によって、その放出を止めてしまう。凍結したエネルギーは身体の中に残り、慢性的な緊張、過覚醒、あるいはシャットダウンとして表面化する。認知的に「あの出来事は過去のことだ」と理解しても、身体はまだあの瞬間にいる。だから身体を通じてしか、本当の解放は起こらない。ここがラヴィーンの出発点です。
「繊細」の正体
さて、HSP(Highly Sensitive Person)という概念を広めたのはエレイン・アーロンと言われていますが、私はこの概念そのものを否定したいわけではありません。感覚処理感受性――深い認知的処理、ささいな環境変化の察知、強い情動的・共感的反応、 刺激に対する圧倒されやすさ――という特性が存在すること自体は、研究として積み重ねられている。ただ、臨床の現場で「HSP」を自認する方の身体に触れていると、少し別のことが見えてきます。
「繊細で人の感情に影響されやすい」という方の多くが、実は自分自身の身体の内部状態をうまく感じ取れていない。内受容感覚(インテロセプション)――心拍、呼吸の深さ、筋肉の緊張度、内臓の状態といった、自分の身体の内側から上がってくる情報を受け取る能力――が、十分に機能していないように見えるんです。
ちょっとわかりにくいかもしれないので、例えてみます。真っ暗闇のなかに放り出された状態を想像してください。自分がどこにいるかわからない。右足を出していいかもわからない。どっちの方角にどのくらいのスピードで歩けばいいかもわからない。そうなると、頼れるのは外からの情報だけです。誰かの声、誰かの手、誰かの表情。自分の位置がわからないから、他者の反応に過剰に依存してしまう。これが「繊細さ」の、少なくとも一部の正体なんじゃないかと、私は臨床の中で感じているんです。
つまり、「感受性が高い」のではなく、「自分の内部状態がわからないからこそ、外部の信号に頼らざるを得ない」という状態。きっとこれを読んでくださっている方のなかにも、思い当たる方がいるのではないでしょうか。人の話を聞いていると自分も落ち込んでしまう。相手が辛そうだと自分の胸まで苦しくなる。そのときあなたの身体では、ミラーリング――相手の身体状態が非言語的にこちらの神経系に同期してしまう現象――がすでに起きています。相手の呼吸が浅ければ、あなたの呼吸も浅くなる。相手の肩が上がっていれば、あなたの肩も知らないうちに上がっている。この身体レベルの同期が先に起きて、それを脳が「悲しい」「辛い」と翻訳する。つまり、心理学でいう「同一化」は、身体的な同期の結果であって、原因ではないんです。
ラヴィーンの言葉で言えば、これはトラウマ的な経験によって身体の自己調整能力が損なわれた状態にほかなりません。幼い頃に感情を受け止めてもらえなかった経験、あるいは身体の信号を「わがまま」「弱い」として否定された経験が、内受容感覚を閉ざしてしまう。自分の身体を感じる回路が細くなれば、自分で自分を調整できない。調整できないから、共同調整――他者の身体状態に自分を合わせることで安定を得る方法――に頼り続ける。赤ちゃんがお母さんの抱っこで安心するのと同じ回路を、大人になっても使い続けているということです。それは恥ずかしいことでもなんでもなくて、身体が生き延びるためにそうしてきたんです。
名前がついた瞬間
だから、「HSP」という名前がついたとき、多くの方が安心するのはよくわかります。「自分がおかしいんじゃなかった」「同じような人がいるんだ」。この安心は本物です。ずっと言葉にできなかった苦しみに名前がつくことの力は、私も臨床家として深く理解しているつもりです。とはいえ、ラヴィーンが繰り返し強調したことがあります。トラウマは診断名ではなく、身体のプロセスである、と。ここがとても大事なところだと思います。
名前がつくと、人はその名前で自分を理解し始めます。「私はHSPだから、人混みが苦手なのは仕方がない」「アダルトチルドレンだから、親密な関係が怖いのは当然だ」。この理解は、自分を責めることをやめるきっかけにはなります。それは素晴らしいことです。でも同時に、名前は身体のプロセスを固定してしまう危険性もはらんでいる。「特性上仕方がない」は、ときに「私はこうである」にすり替わる。身体が本来持っている回復の力――ラヴィーンが「内なる力」と呼んだもの――が、ラベルの下で眠ったままになってしまうことがある。
私は金継ぎの比喩を使っています。割れた器を、金で継ぐ。傷は消えないけれど、修復された器は元よりも美しくなる。だけど金継ぎは、まず割れた箇所に触れなければ始まらない。名前をつけて棚に飾っているだけでは、器は割れたままです。もちろん割れた器も美しいのだけれど、お茶を注げればそれを楽しむ可能性はもっと増える。
境界線は壁じゃない
HSPやエンパス(共感体質)の文脈でよく出てくるのが「境界線(バウンダリー)を引きましょう」というアドバイスです。「ここからは相手の問題、ここからは自分の問題」と意識で線を引く。僕も昔はそう考えていた時期があります。でも、うまくいかないでしょう? 大切な友人が泣いているときに「ここから先は立ち入らない」なんて思いながらコミュニケーション取るのって、なんだか寂しい。
なぜ意識で境界線を引いてもうまくいかないのか。それは、身体レベルでの同期がすでに起きているからです。頭で「これは相手の感情だ」と切り分けようとしても、あなたの身体はもう泣いている。あなたの胸はもう苦しくなっている。後から意識で分離しようとしても、そうなっちまってるもんは仕方がないわけです。壁を作ることが解決策なのではなく、自分自身の身体を感じる力――内受容感覚に基づいた自己調整能力――を育てることが、本当の意味での「境界線」になるんだと、私は思っています。境界線って言葉が、どうも日本語だからピンとこないのかもと感じることもあります。英語だと違和感はないのかなあ。溶け合ってこそ人と人との関わりでもあるような。
自分の身体の内側にいつでも帰ってこられる場所がある人は、相手の感情に同期しても、そこから自分に戻ってくることができる。どっしりとした土台で、心を気なくその人に寄り添える。壁を作って距離を取るコミュニケーションよりも、よっぽどあたたかいつながりが保てるんじゃないかなと思うんです。
「考えるな」の意味
ラヴィーンの治療法であるソマティック・エクスペリエンシング(SE™)の核心は、「フェルトセンス」という概念にあります。ジェンドリンから借りたこの言葉は、言語化される以前の、身体で感じ取られる意味の全体を指します。私の言葉で言えば「原感覚」。快か不快か、安全か危険か――身体はこの言語以前の実感で、つねに環境を査定している。ラヴィーンは、このフェルトセンスに注意を向け、身体のなかに凍結したエネルギーを少しずつ解凍していく(タイトレーションと呼ばれます)プロセスを通じて、トラウマからの回復を導きます。
ここで大事なのは、「考えない」ということです。私も繰り返し言っていることですが、トラウマ的な記憶に対して、認知的に分析したり、リフレーミングしたり、ポジティブに捉え直そうとしても、身体に凍結したパターンは溶けない。「あの出来事があったから今の自分がある」と頭で理解しても、肩は上がったままだし、呼吸は浅いままです。ラヴィーンが言うように、トラウマの核心は物語ではなく身体にある。だから身体を通じてしか、本当の変容は起こらない。
嫌なことを言われた経験を思い出してみてください。誰かの一言が、ずっと頭から離れない。夜、布団のなかで何度もぐるぐる考えてしまう。思考で対抗しようとすればするほど疲れる。これは、その言葉を聞いた瞬間に身体が凍りついたからです。「言葉の記憶」と「身体の防御反応」がひとつのセットとして保存されている。思考でそのセットを解除しようとしても、身体の凍結がある限り、記憶は何度でも蘇る。ラヴィーンのアプローチは、この凍結した身体にやさしく触れて、少しずつ溶かしていくことなんです。
閉ざされた身体と生きづらさ
ここで、「アダルトチルドレン」や「生きづらさ」という言葉についても考えてみたいと思います。嫌なことがあると肩に力が入る。ストレスが続くと無意識に歯を食いしばっている。この防御的な緊張が日常化すると、身体はしなやかさを失い、決められた動きしかできなくなる。私はこれを「閉ざされ」の状態と呼んでいます。
身体の硬直は、心の硬直になります。柔軟に、しなやかに考えることができなくなる。手に入れるべきとされたものを手に入れても、心の底からの喜びがない。成長の実感もない。言われたことはできるけど、それ以上のことは出てこない。マニュアル通りの自分になっていく。かつて持っていた野生的な生の実感が失われている。これが、「生きづらさ」の正体のひとつなんじゃないかと思うんです。心理的な問題ではなく、身体的な閉塞。凍結した身体のなかで、生きている実感そのものが薄くなっている状態。
アダルトチルドレンという文脈でいえば、親の身体状態が子どもに非言語的に伝わるということがとても大きい。メルロ=ポンティが言うように、私たちは言葉以前に身体として世界の中にいる。親が期待や不安で身体を硬くしていると、子どもはそれを身体で受け取る。言葉では「あなたのことが大好き」と言っているのに、身体は「もっとこうしなさい」「私の期待に応えなさい」と発信している。子どもは二重のメッセージを受け取り、自分の身体感覚を信じていいのかわからなくなる。これが、内受容感覚の閉塞と自己不信の始まりです。そしてこの構造は、悪意から生まれるのではなく、親もまた自分の身体を感じる力を奪われてきた結果として起きている。善意で作ったシステムが身体性を奪っていくという、以前書いたことと同じ構造がここにもあるわけです。
ラヴィーンと大沼の交差点
ラヴィーンのソマティック・エクスペリエンシングと、私が実践しているソマティクスは、異なるアプローチです。SEはトラウマの凍結エネルギーの解放に焦点を当て、フェルトセンス(こうはいっていないですが、そうだと解釈しています。)を手がかりに神経系の自己調整を回復させる。私のアプローチは、重力環境下での身体合理性の回復を通じて、「開かれ」の状態を取り戻すことに力点を置いている。思考の整理はその後。出発点も道筋も違う。でも、到達しようとしている場所は似ているように思います。
どちらも、身体が本来持っている回復の力を信頼している。
どちらも、認知だけでは変わらないことを知っている。
どちらも、「あなたのせいではない」と言う。
ラヴィーンは「トラウマは出来事ではなく、身体の中にある」と言い、私は「性格が悪いのではなく、身体が不合理な状態にあるだけだ」と言う。
言葉は違うけれど、向いている方角は同じだと感じています。とはいえ、臨床家にはそれぞれの限界があります。ラヴィーンが神経系の精緻な理論を持っているのに対して、私が提供できるのは、もっと素朴な――重力を感じてみる、肋骨の動きに注意を向けてみるといった、日常のなかでできる身体の教養です。どちらが優れているということではなく、それぞれの身体を持った臨床家が、それぞれの持ち場で、それぞれに気づくことがあるのだと思います。
名前(ラベル)の手前に帰る
HSPでもアダルトチルドレンでもいい。その名前があなたを少しだけ楽にしてくれたなら、それは意味のあることです。でも、その先もあるということを伝えたい。名前は地図であって、地形そのものではない。地形は、あなたの身体のなかにあります。肋骨がどう動いているか。呼吸がどこまで入っているか。肩が今、耳に向かってどのくらいせり上がっているか。どこ心地よいのか、どんなふうに不快なのか。その身体の声は、HSPという名前がつく前から、ずっとあなたに何かを伝えようとしていた。
ラヴィーンは、身体には凍結を自ら解かす力があると言いました。野生動物が震えてエネルギーを放出するように、人間の身体にも、適切な条件さえ整えば、自然に回復するプロセスが内蔵されているといいます。そのプロセスを信頼すること。身体の声を「症状」としてではなく、「回復への道しるべ」として聴くこと。名前を手放す必要はないけれど、名前の手前にある身体の実感に、もう一度耳を澄ませてみてほしいのです。
壁を作らなくていい。線を引かなくていい。自分の身体を感じる力をそなえていけば、大切な人と、思う存分コミュニケーションが取れるようになる。そこから生まれるものこそが、僕ら人間にとっての最大の喜びだったり、生きる意味のひとつだったりするのかもしれない。そのためには、「繊細な自分」をラベルで理解するのではなく、自分の身体の内側に帰ってくるための道を、一歩ずつ作っていくことなんだと思います。
名前がつく前から、あなたの身体はあなたのことを知っていた。名前がなくても、身体は回復の方向を知っている。ラヴィーンが生涯をかけて伝えようとしたことも、私が臨床で日々感じていることも、つまるところそういうことなのだと思うのです。
Where Does the "Sensitive Soul" Go — Peter Levine and the Body Before It Had a Name
"I'm an HSP, you know." In recent years, I've been hearing this phrase with striking frequency in my treatment room. Or: "I think I'm an adult child of dysfunction," "My self-esteem is low." The people who come to me introduce themselves this way. The suffering beneath those words is real, and I understand well the relief that comes from having a name for such vast confusion. I sense that they have distilled their enormous struggles into a single phrase and offered it to me with genuine effort to make themselves understood.
But when I work with bodies, a slightly different landscape comes into view. Before the name existed, that body was already calling out for something. Even after the name was given, the body's message hasn't changed. Sometimes the name creates another filter between me and the body's voice. There's a kind of comfort in placing a label, but beneath the label, the body remains frozen—I encounter this often enough that I've stopped being surprised by it.
I first picked up Peter Levine's An Introduction to Somatic Experiencing: Awakening the Inner Power to Heal Trauma during a time when I was beginning to feel the limits of my practice as an acupuncturist. The needle would release the tension, but two weeks later, that same spot would tighten again. Why? I was seeking answers from the body's perspective to that "why," when this book found me. Levine was a physiologist who served as a stress consultant to NASA and illuminated the traces of trauma held in the human body through the lens of animal behavior and neuroscience. To be honest, my first impression upon reading it was: "Ah, this is exactly what I've been sensing with my hands in the treatment room." I suspect many others have had a similar encounter.
Levine's core insight is disarmingly simple: trauma is not a memory of an event, but frozen energy trapped in the body. When a wild animal is attacked by a predator, it shakes its entire body violently to discharge that energy. But humans, constrained by social inhibition—"don't cry," "you're fine," "pull yourself together"—suppress that discharge. The frozen energy remains inside, surfacing as chronic tension, hyperarousal, or shutdown. Even if we understand cognitively that "that happened in the past," the body is still in that moment. Real liberation happens only through the body. This is Levine's starting point.
What "Sensitivity" Actually Is
Now, it's said that Elaine Aron popularized the concept of High Sensitivity, but I'm not looking to negate the concept itself. The characteristic of sensory processing sensitivity—deep cognitive processing, perception of subtle environmental changes, strong emotional and empathic responses, and susceptibility to being overwhelmed—does exist and has been substantiated by research. But when I work with the bodies of those who identify as HSP, I notice something else.
Many of those who say they are "sensitive and easily affected by others' emotions" are actually not sensing their own internal bodily states very well. Interoception—the ability to receive signals from within your body: heartbeat, breath depth, muscle tension, visceral state—doesn't seem to be functioning adequately in many of them.
This might be hard to picture, so let me use an analogy. Imagine being dropped in pitch-black darkness. You don't know where you are. You don't know if you should step forward with your right foot. You don't know which direction to walk or how fast. When that happens, all you have to rely on are signals from outside. Someone's voice, someone's hand, someone's expression. Because you don't know your own position, you become excessively dependent on others' reactions. I think this dependency—at least part of it—is the true nature of "sensitivity," based on what I've sensed in the clinic.
In other words, it's not "heightened sensibility" but rather "having no choice but to depend on external signals because you can't perceive your own internal state." I imagine there are readers who recognize themselves in this. When you listen to someone talk and find yourself becoming sad. When your friend suffers and your own chest tightens. At that moment, something called mirroring is already happening in your body—a phenomenon where another person's bodily state synchronizes with your nervous system at a nonverbal level. Their breathing is shallow, so yours becomes shallow. Their shoulders are raised, and without noticing, yours rise too. This bodily synchronization happens first, and then your brain translates it as "sad" or "painful." So what psychology calls "identification" is actually the result of bodily synchronization, not its cause.
In Levine's terms, this is a state where the body's capacity for self-regulation has been damaged by traumatic experience. An early experience of having emotions dismissed, or of having your body's signals labeled as "selfish" or "weak," closes down your interoceptive pathway. If the circuit for feeling your own body narrows, you can't self-regulate. Unable to self-regulate, you continue to depend on co-regulation—stabilizing yourself by synchronizing with another person's bodily state. You're using the same mechanism that a baby uses when held by its mother, and you're still using it as an adult. This isn't something to be ashamed of. Your body did this in order to survive.
The Moment a Name Was Given
That's why the relief many people feel when given the name "HSP" makes perfect sense to me. "I'm not broken," "there are others like me." That relief is genuine. The power of having a name for suffering that couldn't be articulated before—I understand this deeply as a clinician. Yet Levine repeatedly emphasized something crucial: trauma is not a diagnosis; it is a bodily process. I think this distinction is essential.
When we have a name, we begin understanding ourselves through that name. "I'm HSP, so struggling in crowds is inevitable." "I'm an adult child, so being afraid of intimate relationships is only natural." This understanding can be a relief from self-blame, which is wonderful. But names also carry the danger of fixing a bodily process in place. "It's unavoidable due to my nature" can slip into "This is who I am." The body's inherent capacity for recovery—what Levine called the "inner strength"—can fall dormant beneath that label.
I use a metaphor: kintsugi, the Japanese art of repairing broken pottery with gold. The break doesn't disappear, but the mended vessel becomes more beautiful than before. But kintsugi can only begin if you actually touch the broken place. A name on a shelf is not mending. The vessel stays broken. A broken vessel has its own beauty, of course. But if you can pour tea into it, the possibilities expand.
Boundary Is Not a Wall
In conversations about HSP and empaths, you often hear the advice: "Set boundaries." Draw a line: "This is my problem, that is theirs." I used to think that way too. But it doesn't work, does it? When a close friend is crying, trying to hold a conversation while thinking "I'm not going past this point"—it feels lonely.
Why doesn't drawing a boundary with your conscious mind work? Because bodily synchronization has already occurred. Your head tries to separate: "This is their emotion," but your body is already weeping. Your chest is already tight. You can't undo what's already happened by trying to split it afterward. I don't think walls are the solution. What becomes a true boundary is cultivating the ability to feel your own body—developing self-regulation capacity rooted in interoception. The word "boundary" itself—I sometimes wonder whether it carries different weight across languages and cultures. In Japanese, it somehow doesn't land quite right. Perhaps that's because connection between people happens precisely through a kind of merging. Maybe the very dissolving is what makes real relating possible.
A person who always has a place inside their own body to return to can synchronize with another's emotion and still come back to themselves. With that solid foundation, you can open your heart fully to that person without reservation. I think this creates a far warmer connection than one built by maintaining walls and distance.
What "Don't Think" Means
The core of Somatic Experiencing (SE™), Levine's therapeutic method, lies in a concept called "felt sense"—a term borrowed from Gendlin that refers to the whole meaning of something as it is sensed in the body before it becomes language. In my words: primal sensation. Pleasant or unpleasant, safe or dangerous—the body continuously reads the environment in this pre-linguistic felt sense. Levine guides recovery from trauma by directing attention to this felt sense and gradually thawing the frozen energy within the body (a process called titration).
What matters here is: don't think. I keep saying this, but traumatic memories won't dissolve through cognitive analysis, reframing, or trying to view them positively. The body's frozen pattern won't melt. You can understand intellectually that "the past made me who I am," but your shoulders stay raised and your breath stays shallow. As Levine says, trauma's core isn't a story—it's held in the body. True transformation happens only through the body.
Remember a time you were hurt by someone's words. A single phrase keeps cycling through your mind. In bed at night, you replay it over and over. The more you try to think your way out, the more exhausted you become. This is because the moment those words landed, your body froze. The memory of the words and the body's defensive response are stored as one package. Trying to use thought to unlock that package won't work—as long as the body is frozen, the memory will resurface again and again. Levine's approach is to touch that frozen place gently and slowly melt it.
The Closed Body and the Difficulty of Living
Now I want to think about the terms "adult child of dysfunction" and "difficulty living." When something painful happens, tension shoots into the shoulders. When stress persists, you unconsciously clench your teeth. When defensive tension becomes habitual, the body loses its suppleness and can only move in predetermined ways. I call this the state of being "closed."
Physical rigidity becomes mental rigidity. You lose the ability to think flexibly and fluidly. Even when you achieve what you're supposed to achieve, there's no joy from the depths of your heart. No sense of growth. You can do what you're told, but nothing beyond that emerges. You become the person according to the manual. The wild, vivid sense of being alive that you once had—it's gone. I think this is one of the core truths of "difficulty living." It's not a psychological problem; it's bodily closure. A frozen body where the very sense of being alive has thinned.
In the context of adult children, something crucial happens: the parent's bodily state is transmitted to the child nonverbally. As Merleau-Ponty said, we exist bodily in the world before we think. When a parent hardens their body with expectation and anxiety, the child receives it through their body. The words say "I love you," but the body broadcasts "do better," "meet my expectations." The child receives these double messages and stops knowing whether to trust their own bodily sense. This is the beginning of interoceptive closure and self-doubt. And this structure doesn't arise from malice—it arises because the parent, too, has been robbed of the ability to feel their own body. A system built with good intentions strips away embodiment. The same structure I've written about before manifests here too.
Where Levine and Onuma Intersect
Levine's Somatic Experiencing and the somatics I practice are different approaches. SE focuses on releasing trauma's frozen energy and recovering the nervous system's self-regulation capacity, using felt sense as a guide (though Levine doesn't put it this way—this is my interpretation of his work). My approach emphasizes recovering bodily rationality within gravity's field to restore a state of openness. Thinking gets organized later. The departure point and the path differ. But I sense that the destination looks similar.
Both trust the body's inherent capacity for healing.
Both know that cognition alone cannot change what needs changing.
Both say: "It's not your fault."
Levine says "trauma exists in the body, not in the event." I say "it's not that your character is flawed—your body is in an irrational state."
The words differ, but we're facing the same direction. That said, clinicians have their own limits. While Levine brings refined neurological theory, what I offer is something simpler—the kind of bodily literacy that fits into everyday life: feel the weight of gravity, attend to the movement of your ribs. It's not about which is better. Each clinician with their own body, standing in their own place, notices something different.
Returning to Before the Name
Whether HSP or adult child of dysfunction—if the name brought you some relief, it had meaning. But there's more beyond that. A name is a map, not the terrain itself. The terrain lives in your body. How are your ribs moving? How deep is your breathing? How much are your shoulders hiked toward your ears right now? Where feels comfortable, and how does discomfort show up? That voice from your body was already reaching out to you long before the label "HSP" existed.
Levine said the body has the power to unfreeze itself. Just as wild animals shake and discharge energy, the human body has, under the right conditions, an innate process of recovery. Trust that process. Listen to your body's voice not as a symptom but as a signpost pointing toward healing. You don't need to abandon the name, but turn your ear once more to the bodily felt sense beneath the name.
You don't need to build walls. You don't need to draw lines. When you develop the capacity to feel your own body, you'll be able to communicate fully with the people you care about. What emerges from that might be one of the greatest sources of joy for humans—perhaps even part of why we're alive. To get there, instead of understanding your "sensitivity" through a label, you need to walk the path, step by step, of learning to return to the inside of your own body.
Before the name, your body already knew you. Without a name, your body knows the direction of healing. What Levine spent his life trying to convey, what I feel every day in the clinic—it all comes down to this.
"민감한 사람"은 어디로 가는가 ― 피터 레빈과, 이름이 붙기 전의 몸의 목소리
"저는 HSP예요." 시술실에서 이 말을 듣는 횟수가 최근 몇 년 사이에 확연히 늘었습니다. 아니면 "아동기 기능 장애가 있는 것 같아요", "자존감이 낮아서요" 같은 말들. 찾아오시는 분들이 자신을 이렇게 소개하십니다. 그 말 뒤에 있는 고통은 진짜이고, 이름이 붙으므로써 편해졌다는 마음도 잘 알아요. 저한테 어떻게든 알기 쉽게, 막대한 고민 속에서 고심 끝에 한 움큼으로 압축해서 전해주신 말이라고 느끼고 있습니다.
하지만 몸에 손을 대고 있으면 조금 다른 풍경이 보여요. 이름이 붙기 전부터 그 몸은 줄곧 뭔가를 호소하고 있었습니다. 이름이 붙은 후에도 몸의 호소는 변하지 않았어요. 오히려 이름이 붙은 탓에 몸의 목소리가 또 한 겹의 필터를 통해서 들리게 된 분도 있습니다. 라벨을 붙이면 마음이 놓이지만, 라벨 아래에서 몸은 여전히 얼어 있다―그런 것을 느끼는 일이 적지 않습니다.
피터 레빈의 『소마틱 경험 입문―트라우마를 치유하는 내적 힘을 일깨우다』를 처음 손에 잡은 것은, 침술사로서의 임상에 한계를 느끼기 시작할 무렵이었습니다. 침을 놓으면 뭉친 곳이 풀려요. 하지만 2주 뒤면 같은 자리가 또 굳어서 돌아와요. 왜 되돌아올까. 그 '왜'에 몸 쪽에서 답을 내려 하던 때 이 책을 만났습니다. 레빈은 NASA의 스트레스 컨설턴트를 역임한 생리학자로, 인간의 몸에 남는 트라우마의 흔적을 동물 행동학과 신경과학의 시각에서 밝혀낸 사람입니다. 솔직히 말하면, 읽었을 때 첫인상은 "아, 이건 내가 시술실에서 손으로 느껴 온 것과 같구나"였어요. 많은 분들도 비슷한 만남을 하고 있는 건 아닐까요.
레빈의 핵심 통찰은 매우 간단합니다. 트라우마는 사건의 기억이 아니라 몸에 동결된 에너지다. 야생동물은 포식자에게 습격당한 후 온몸을 부르르 떨면서 그 에너지를 방출합니다. 하지만 인간은 사회적 억제―"울지 마", "괜찮겠지", "정신 차려"―로 그 방출을 멈춰 버려요. 동결된 에너지는 몸속에 남아 만성적 긴장이나 과각성, 혹은 셧다운으로 표면화됩니다. 인지적으로 "그 일은 과거의 일이다"라고 이해해도 몸은 아직 그 순간에 있어요. 그래서 몸을 통해서만 진정한 해방이 일어납니다. 여기가 레빈의 출발점입니다.
"민감함"의 정체
HSP(Highly Sensitive Person)라는 개념을 널리 퍼뜨린 사람이 엘레인 아론이라고 알려져 있는데, 저는 이 개념 자체를 부정하려는 건 아닙니다. 감각 처리 감수성―깊은 인지적 처리, 미세한 환경 변화의 감지, 강한 정서적·공감적 반응, 자극에 압도되기 쉬움―이라는 특성이 존재하는 것 자체는 연구로 축적되어 있어요. 다만 임상 현장에서 HSP를 자인하는 분의 몸에 손을 대다 보면, 조금 다른 것이 보입니다.
"민감해서 남의 감정에 영향받기 쉽다"고 말하는 분들 대부분이 사실은 자기 몸의 내부 상태를 잘 감지하지 못하고 있어요. 내수용감각(인테로셉션)―심박수, 호흡의 깊이, 근육의 긴장도, 내장의 상태 같은 자신의 몸 안에서 올라오는 정보를 받아들이는 능력―이 충분히 기능하지 않는 것처럼 보여요.
좀 알기 어려울 수도 있으니까 예를 들어 볼게요. 칠흑같이 어두운 곳에 내팽겨쳐진 상태를 상상해 보세요. 자신이 어디에 있는지 몰라요. 오른발을 내밀어도 될지 몰라요. 어느 방향으로 얼마나 빨리 걸어야 하는지도 몰라요. 그러면 의지할 수 있는 건 밖에서 오는 정보뿐이에요. 누군가의 목소리, 누군가의 손, 누군가의 표정. 자기 위치를 모르니까 타인의 반응에 과도하게 의존하게 되는 거예요. 이것이 "민감함"의 적어도 일부의 정체가 아닐까 하고 저는 임상에서 느끼고 있어요.
즉, "감수성이 높다"가 아니라 "자신의 내부 상태를 알 수 없기에 외부 신호에 의존할 수밖에 없는" 상태인 거예요. 이걸 읽어 주시는 분들 중에도 떠오르는 바가 있지 않을까요. 누군가의 이야기를 들으면 자기도 처지게 돼요. 상대가 힘들어 보이면 자기 가슴까지 답답해져요. 그때 당신의 몸에서는 미러링이―상대방의 신체 상태가 비언어적으로 당신의 신경계에 동기화되는 현상이―이미 일어나고 있어요. 상대의 호흡이 얕으면 당신의 호흡도 얕아져요. 상대의 어깨가 올라가 있으면 당신의 어깨도 모르는 새 올라가 있어요. 이 신체 수준의 동기화가 먼저 일어나고, 그걸 뇌가 "슬프다", "힘들다"라고 번역하는 거예요. 즉 심리학에서 말하는 "동일시"는 신체적 동기화의 결과이지, 원인이 아닙니다.
레빈의 말로 하면, 이건 트라우마적 경험으로 몸의 자기조절 능력이 손상된 상태에 다름없어요. 어릴 때 감정을 받아주지 못한 경험이나, 몸의 신호를 "고집쟁이", "약해빠졌다"로 부정당한 경험이 내수용감각을 닫아 버려요. 자기 몸을 느끼는 회로가 가늘어지면 스스로를 조절할 수 없어요. 조절할 수 없으니 공동조절―타인의 신체 상태에 자신을 맞춰서 안정을 얻는 방식―에 계속 의존하게 돼요. 아기가 엄마 품에서 안심하는 것과 같은 회로를 어른이 되어서도 쓰고 있다는 뜻이에요. 이건 부끄러운 일도 뭣도 아니라, 몸이 살아남기 위해 그렇게 해 온 거예요.
이름이 붙은 그 순간
그래서 "HSP"라는 이름이 붙었을 때 많은 분이 안심하는 건 잘 이해해요. "내가 이상한 게 아니었구나", "같은 사람이 있구나". 이 안심은 진짜예요. 말로 표현할 수 없던 고통에 이름이 붙는 힘을 저도 임상가로서 깊이 이해하고 있습니다. 그렇긴 해도 레빈이 거듭 강조한 것이 있어요. 트라우마는 진단명이 아니라 신체적 프로세스다, 라고요. 여기가 아주 중요한 부분이라고 생각해요.
이름이 붙으면 사람은 그 이름으로 자신을 이해하기 시작합니다. "나는 HSP니까 인파가 힘든 건 어쩔 수 없지", "아동 기능 장애가 있으니 친밀한 관계가 두려운 건 당연해". 이런 이해는 자기를 탓하는 걸 멈추는 계기가 될 수 있어요. 그건 대단한 일이에요. 하지만 동시에 이름은 신체적 프로세스를 고정시킬 위험성도 지니고 있어요. "특성상 어쩔 수 없다"가 어느새 "나는 이렇다"로 바뀌기도 해요. 몸이 본래 가지고 있는 회복의 힘―레빈이 "내적 힘"이라 부른 것―이 라벨 아래서 잠든 채로 남을 수 있습니다.
저는 금 이음새(킨츠기)라는 비유를 쓰고 있어요. 깨진 그릇을 금으로 이어요. 상처는 사라지지 않지만, 수리된 그릇은 원래보다 아름다워져요. 하지만 금 이음새는 먼저 깨진 부분에 손을 댈 수 있어야 시작됩니다. 이름을 붙여서 선반에 올려둘 뿐이면 그릇은 깨진 채예요. 물론 깨진 그릇도 아름답지만, 차를 따를 수 있으면 그걸 즐길 가능성은 훨씬 더 넓어져요.
경계선은 벽이 아니에요
HSP나 엠패스(공감 체질)의 맥락에서 자주 나오는 조언이 "경계선(바운더리)을 그으세요"예요. "여기서부터는 상대의 문제, 여기서부터는 내 문제"라고 의식으로 선을 긋는 거죠. 저도 예전에는 그렇게 생각하던 시기가 있어요. 하지만 잘 안 되잖아요? 소중한 친구가 울고 있을 때 "여기서부터는 들어가지 않을 거야"라고 생각하면서 대화하는 게 왠지 외로워요.
왜 의식으로 경계선을 그어도 잘 안 되는 걸까요. 신체 수준의 동기화가 이미 일어나 있으니까요. 머리로 "이건 상대의 감정이다"라고 나누려 해도 당신의 몸은 이미 울고 있어요. 가슴이 이미 답답해져 있어요. 나중에 의식으로 분리해 보려고 해도, 이미 그렇게 되어 버린 건 어쩔 수 없는 거예요. 벽을 만드는 게 해결책이 아니라, 자기 몸을 느끼는 힘―내수용감각에 바탕을 둔 자기조절 능력―을 키워 가는 것이 진정한 의미의 "경계선"이 된다고 저는 생각해요. "경계선"이라는 말 자체가 문화나 언어에 따라 다르게 와 닿는 것 같기도 해요. 일본어에서는 왠지 딱 와 닿지 않거든요. 사람과 사람의 관계라는 건 어우러져야 비로소 성립하는 것이기도 하니까요.
자기 몸의 내부에 언제든 돌아올 수 있는 장소가 있는 사람은 상대의 감정에 동기화되어도 거기서 자신에게 돌아올 수 있어요. 단단한 토대 위에서 마음 편히 그 사람에게 다가갈 수 있어요. 벽을 세우고 거리를 두는 소통보다 훨씬 따뜻한 이어짐을 지킬 수 있을 거라고 생각해요.
"생각하지 마"의 의미
레빈의 치료법인 소마틱 경험(SE™)의 핵심은 "펠트 센스(felt sense)"라는 개념에 있습니다. 젠들린에게서 빌려온 이 말은 언어화되기 전의, 몸으로 감지되는 의미의 전체를 가리켜요. 제 말로 하면 "원감각(겐칸카쿠)". 기분 좋은지 불쾌한지, 안전한지 위험한지―몸은 이 언어 이전의 실감으로 늘 환경을 살피고 있어요. 레빈은 이 펠트 센스에 주의를 기울여, 몸 안에 동결된 에너지를 조금씩 해동해 가는(타이트레이션이라 부릅니다) 프로세스를 통해 트라우마로부터의 회복을 이끌어냅니다.
여기서 중요한 것은 "생각하지 않는다"는 거예요. 저도 거듭 말하고 있는데, 트라우마적 기억에 대해 인지적으로 분석하고, 리프레이밍하고, 긍정적으로 다시 바라보려 해도 몸에 동결된 패턴은 녹지 않아요. "그 일이 있었기에 지금의 내가 있다"고 머리로 이해해도 어깨는 올라간 채고, 호흡은 얕은 그대로예요. 레빈이 말하듯 트라우마의 핵심은 이야기가 아니라 몸에 있어요. 그래서 몸을 통해서만 진정한 변용이 일어납니다.
누군가에게 싫은 말을 들은 경험을 떠올려 보세요. 한마디가 줄곧 머릿속에서 떠나지 않아요. 밤 이불 속에서 몇 번이나 빙글빙글 생각하게 돼요. 생각으로 맞서려 할수록 지쳐요. 이건 그 말을 들은 순간 몸이 얼어붙었기 때문이에요. "말의 기억"과 "몸의 방어 반응"이 한 세트로 저장되어 있어요. 생각으로 그 세트를 풀려 해도 몸의 동결이 있는 한 기억은 몇 번이든 다시 솟아올라요. 레빈의 접근은 이 동결된 몸에 부드럽게 손을 대서 조금씩 녹여 가는 거예요.
닫혀 있는 몸과 살기 힘듦
여기서 "아동 기능 장애"나 "살기 힘듦"이라는 말에 대해서도 생각해 보고 싶어요. 싫은 일이 있으면 어깨에 힘이 들어가요. 스트레스가 계속되면 모르는 사이 이를 꽉 물고 있어요. 이런 방어적 긴장이 일상이 되면 몸은 유연함을 잃고 정해진 움직임밖에 할 수 없게 돼요. 저는 이것을 "닫혀 있는" 상태라고 부릅니다.
몸의 경직은 마음의 경직이 됩니다. 유연하고 부드럽게 생각할 수 없게 돼요. 손에 넣어야 한다는 것들을 손에 넣어도 마음 깊은 곳의 기쁨이 없어요. 성장의 실감도 없어요. 시킨 대로는 할 수 있지만 그 이상은 나오지 않아요. 매뉴얼대로의 자신이 되어 가요. 예전에 가지고 있던 야생적인 살아 있음의 실감이 사라져 있어요. 이것이 "살기 힘듦"의 정체 중 하나가 아닐까 싶어요. 심리적 문제가 아니라 신체적 폐색. 동결된 몸 안에서 살아 있다는 것 자체의 실감이 엷어져 있는 상태.
아동 기능 장애의 맥락으로 보면, 부모의 신체 상태가 아이에게 비언어적으로 전해진다는 것이 정말 커요. 메를로-퐁티가 말했듯 우리는 말보다 먼저 몸으로 세계 안에 있어요. 부모가 기대나 불안으로 몸을 경직시키면 아이는 그걸 몸으로 받아들여요. 말로는 "너를 정말 사랑해"라고 하는데, 몸은 "더 이렇게 해", "내 기대에 부응해"라고 발신하고 있어요. 아이는 이중 메시지를 받고 자기 신체 감각을 믿어도 되는지 알 수 없게 돼요. 이것이 내수용감각의 폐색과 자기불신의 시작이에요. 그리고 이 구조는 악의에서 비롯되는 게 아니라, 부모도 자기 몸을 느끼는 힘을 빼앗겨 온 결과로 일어나는 거예요. 좋은 의도로 만든 시스템이 신체성을 빼앗아 간다는, 예전에 쓴 것과 같은 구조가 여기에도 있어요.
레빈과 오누마의 교차점
레빈의 소마틱 경험과 제가 실천하는 소마틱스는 다른 접근법입니다. SE는 트라우마의 동결 에너지 해방에 초점을 맞추고, 펠트 센스(레빈은 이렇게 말하지 않지만, 저는 그렇게 해석하고 있습니다)를 실마리로 신경계의 자기조절을 회복시킵니다. 제 접근은 중력환경에서의 신체합리성의 회복을 통해 "열림"의 상태를 되찾는 데 힘을 싣고 있어요. 사유의 정리는 그 후의 일이에요. 출발점도 길도 달라요. 하지만 도달하려는 곳은 비슷해 보여요.
둘 다 몸이 본래 가지고 있는 회복의 힘을 신뢰하고 있습니다.
둘 다 인지만으로는 변하지 않는다는 것을 알고 있습니다.
둘 다 "당신 탓이 아니다"라고 말합니다.
레빈은 "트라우마는 사건이 아니라 몸 안에 있다"고 말하고, 저는 "성격이 나쁜 게 아니라 몸이 비합리적인 상태에 있을 뿐"이라고 말해요.
말은 다르지만 바라보는 방향은 같다고 느껴요. 그렇긴 해도 임상가에겐 각자의 한계가 있어요. 레빈이 신경계의 정교한 이론을 가지고 있는 반면, 제가 제공할 수 있는 건 더 소박한 것―중력을 느껴 보기, 늑골의 움직임에 주의를 기울여 보기 같은, 일상 안에서 할 수 있는 몸의 교양이에요. 누가 더 낫냐의 문제가 아니라, 각자의 몸을 가진 임상가가 각자의 자리에서 각자 알아차리는 것이 있다는 뜻이에요.
이름(라벨) 앞으로 돌아가기
HSP든 아동 기능 장애든 상관없어요. 그 이름이 당신을 조금이라도 편하게 해 줬다면 의미 있는 일이에요. 하지만 그 너머도 있다는 것을 전하고 싶어요. 이름은 지도이지 지형 자체가 아니에요. 지형은 당신의 몸 안에 있습니다. 늑골이 어떻게 움직이고 있는지. 호흡이 어디까지 들어오는지. 어깨가 지금 귀를 향해 얼마나 올라가 있는지. 어디가 편한지, 어떻게 불편한지. 그 몸의 목소리는 HSP라는 이름이 붙기 훨씬 전부터 줄곧 당신에게 뭔가를 전하려 하고 있었어요.
레빈은 몸에는 동결을 스스로 풀 힘이 있다고 말했습니다. 야생동물이 떨면서 에너지를 방출하듯, 인간의 몸도 적절한 조건만 갖춰지면 자연스럽게 회복하는 프로세스가 내장되어 있다고 해요. 그 프로세스를 신뢰하는 것. 몸의 목소리를 "증상"이 아니라 "회복을 향한 이정표"로서 듣는 것. 이름을 버릴 필요는 없지만, 이름 앞에 있는 몸의 실감에 다시 한번 귀를 기울여 주세요.
벽을 만들지 않아도 돼요. 선을 긋지 않아도 돼요. 자기 몸을 느끼는 힘을 갖춰 가면, 소중한 사람과 마음껏 소통할 수 있게 돼요. 거기서 나오는 것이야말로 우리 인간에게 최대의 기쁨이기도 하고, 살아가는 의미 중 하나이기도 할지 몰라요. 그러려면 "민감한 자신"을 라벨로 이해하는 게 아니라 자기 몸의 안쪽으로 돌아올 수 있는 길을 한 발씩 만들어 가는 것이라고 생각해요.
이름이 붙기 전부터 당신의 몸은 당신을 알고 있었어요. 이름이 없어도 몸은 회복의 방향을 알고 있어요. 레빈이 평생을 걸고 전하려 한 것도, 제가 임상에서 날마다 느끼는 것도, 결국 그런 것이라 생각합니다.

