会話で大事なのは、何があったかじゃない
会話で大事なのは、何があったかじゃない
対人支援は、つきつめればコミュニケーション
事実の確認
身体がゆるむ
体験を掘り下げる
相手とつながる
渡し合うのは、出来事の情報ではなくて、体験のほう。
受け止めるけれど、閉じこまない。
「ちゃんと聞かなきゃ」と力むと、身体が強張ります。
固まった身体は、感じないし、動かない。一生懸命なのに、かえって相手が遠くなる。
この夏、私塾の新しい募集が始まります。
対人支援者のための、一年かけた学びの場です。これまで集まってくれた方たちの顔ぶれを思い浮かべると、職業はほんとうにさまざまです。リラクゼーションのセラピスト、ヨガやピラティスのインストラクター、鍼灸や整体の施術者、作業療法士、臨床心理士、ケアマネジャー、看護や介護の現場にいる方、コーチ、学校の先生。よくこれだけ違う仕事の人が、ひとつの場所に集まったなと思います。
一見、バラバラに見えます。でも、ひとつだけ、はっきり共通していることがあります。みんな、誰かの身体や心に手を伸ばして、その人がよくなっていくのを支える仕事をしている。そこは同じなんです。
そんなにいろんな職業の人が、どうしてひとつの場所に集まるのか。対人支援というのは、つきつめれば、コミュニケーションだからだと思っています。
脈を取る。話を聞く。背中に手を当てる。相づちを打つ。黙って待つ。問い返す。施術も、カウンセリングも、ヨガの指導も、芯にあるのは、目の前の人とのやりとりそのものです。誰かと通じ合おうとすること。職業の看板が違っても、そこは同じなんだと思います。
そして、コミュニケーションは、対人支援を仕事にしている人だけのものではありません。
友達の愚痴を聞く夜があります。子供が、学校であったことを早口で話してくる。パートナーと、どうでもいいことで少しすれ違う。年老いた親と電話をする。自分の中のもやもやと、自分で話をつけようとする。私たちは一日のうち、驚くほど長い時間を、誰かと、あるいは自分と、やりとりすることに使っています。
だからコミュニケーションは、職業に関係なく、私たちみんなにとって、とても大事なものだと思うんです。これから三週にわたってお話しするのは、支援職の人のための専門的な話のようでいて、ほんとうは、あなたと、目の前の誰かとのあいだに毎日起きていることの話です。
今日は、いちばん根っこにある勘違いの話をします。会話で大事なのは、何があったか、ではないんです。
「ちゃんと聞かなきゃ」と力むと、相手を感じられない
誰かが、深刻な顔で相談してきたとします。
私たちはつい、背筋を伸ばします。ちゃんと聞かなきゃ、と。真剣に、ひとつも漏らさず受け止めよう、と身構える。その気持ちは、とても優しいものだと思います。
ただ、人の話が分かるというのは、相手の体験を、自分の身体でうっすら追体験することなんですね。悲しい話を聞いていて、自分の胸のあたりがきゅっとなる。楽しそうな話につられて、自分まで顔がほころぶ。あの、勝手に起きてくる身体の反応。あれが、相手の体験を受け取る、ということだと思っています。
ところが、「ちゃんと聞かなきゃ」と力むと、身体が強張ります。肩が上がって、息が浅くなって、固くなる。固まった身体は、感じないし、動かない。だから、相手の体験を追体験できなくなってしまう。一生懸命なのに、かえって相手が遠くなる。皮肉なものです。
それどころか、「ちゃんとしなきゃ」という強張りそのものが、自分の防御反応になっていることもあります。身構えるというのは、もともと、身を守る姿勢でもあるんですね。相手を受け止めているつもりで、自分の身体のほうは、ぎゅっと閉じてしまっている。
だから、まずは力を抜くこと。聞き手の身体がゆるんでいること。それが、相手の体験を受け取るための、いちばんの土台になります。なんなら、ふざけるくらいでちょうどいいんです。
受け止めるのは、いいこと。閉じこまなければ
力を抜いて、相手の体験を受け取る。受け止めること自体は、いいことです。大事なのは、受け止めたものを、自分の体験の中で閉じこまないこと、なんですね。相手の話を飲み込んで、自分の中にしまって、蓋をする。返さない。そうやって閉じこんでしまうと、せっかくのやりとりが、片道で終わってしまいます。
だから、受け止めたら、こんどはこちらの体験を返してみます。カウンセリングの世界では、アイメッセージと呼ばれたりします。「それは悔しいね」と相手を評定するのではなくて、「それ聞いて、私もなんだか胸がぎゅっとなった」と、自分に起きたことを差し出す。
不思議なもので、こちらが自分の体験を返すと、相手の輪郭が立ち上がってきます。自分ひとりが宙に浮いていたのが、向かいに誰かがいる、と感じられる。話している側は、相手の反応という鏡があって、はじめて自分の形を確かめられるんだと思います。
潰す必要はありません。否定する必要もない。ただ、飲み込んで黙り込むのではなくて、受け取ったうえで、自分に起きたものをそっと返す。それだけで、会話は息を吹き返します。
大事なのは、何があったかじゃない
私たちの会話は、放っておくと、事実を確認する作業になりやすいです。「で、結局どうなったの」「それいつ?」「相手はなんて言ったの」。出来事を、時系列に沿って、正確になぞろうとする。
事実の確認が悪いわけではありません。ただ、そこだけを追いかけていると、いちばん肝心なものを取りこぼします。その人が、そのとき、何を感じていたか。体験のほうです。
たとえば、失恋した友達が「悲しい」と話してくれたとします。私たちはよかれと思って、すぐに「辛かったね」と声をかける。でも、本人は「辛い」とは言っていない。「悲しい」と言ったんです。この違いを、私はけっこう大事だと思っています。「悲しいって言ったのに、辛いねって言ってしまうことで、体験的に起きていた『悲しい』が、情報から入ってきた『辛いね』に変換されて、余計にごちゃごちゃになっちゃう」。
本人の中に確かにあった「悲しい」という体験の上に、こちらが渡した「辛い」という言葉がかぶさる。すると、もともとの感じが見えなくなってしまう。善意のはずの相づちが、相手の体験を、上から塗り替えてしまうんですね。
もっと気をつけたいことがあります。事実だけをなぞっていくと、相手の傷を、ただ開くだけになりかねない、ということです。何があったかを順番に語らせて、その体験には触れない。これだと、しまっておいた古い痛みを引っぱり出して、ほどく手当てもせずに放り出すような格好になります。
トラウマというのは、もともと、体に残った防御反応なんです。怖い思いをした瞬間に、身体が芯のところでぎゅっと固まる。その固まりが、真ん中に残る。そこへ、あとからいろんな思考がくっついて、だんだん大きくなっていく。だから、体験に触れないまま事実だけをなぞると、その芯の固まりを、ただ刺激することになりかねません。聞いているこちらは「ちゃんと話を聞いた」つもりなのに、相手はかえって、ざらついた気持ちで帰っていく。
どうして、私たちの会話は、こんなに事実中心になってしまったんでしょう。私は、その人が冷たいからだとは思いません。私たちは、結論を急ぐ社会に生きています。早く要点を。早く解決を。タイパよく。LINEは用件だけで終わって、会議は結論から話せと言われる。効率を求める空気の中で、「あなたはどう感じた?」という、答えの出ない問いは、いつのまにか後回しになっていきます。会話が用件のやりとりになっていくのは、あなたの心が薄いからではなくて、社会の側が、感じることより片づけることを、ずっと急かしてくるからだと思うんです。
体験を、掘り下げて聞く
では、どうすればいいか。難しいことではありません。
ひとつは、さっきの、自分の体験を伝えること。もうひとつは、相手の体験を、掘り下げて聞くこと。この二つです。
掘り下げるというのは、尋問することではありません。事実を増やすことでもない。たとえば子供が学校から帰ってきたとき、「今日どうだった?」と聞くと、たいてい「ふつう」で終わります。これは事実を聞いている。そうではなくて、「今日いちばん、どんな気持ちになった?」と聞いてみる。体験のほうへ、入口を開けるんです。
施術の現場では、もう少し細かく聞いていきます。相手が「なんかスッとした」と言ったら、そのスッは、どのあたりで感じますか、と尋ねる。胸なのか、お腹なのか。ふわっとした感じか、ぎゅっとした感じか。温かいのか、涼しいのか。一瞬だったか、続いているか。場所、質感、形、動き。そういういくつかの窓から、その人の体験の解像度を、いっしょに上げていきます。
これは「想像して、確認する」やりとりでもあります。こちらが相手の体験を、自分の内側でいったん想像してみる。そのうえで、「それって、こういう感じ?」と、そっと確認する。決めつけずに、相手に返して、すり合わせていく。
これは支援の技術のように見えて、家でも、職場でも、そのまま使えます。「大変だったね」で片づけるかわりに、「それ、体のどのへんにくる感じ?」と一度聞いてみる。相手は、自分でも気づいていなかった感じに、ふと触れることがあります。
ひとつ、コツがあります。「絶対に引き出してやろう」と力むと、うまくいきません。私自身、そうなると「自分の感覚も分かんなくなるし、相手の微妙なサインっていうのも分かんなくなってきたりします」。聞き手がこわばると、その硬さは、ふしぎと相手にも伝わる。さっきの強張りと、同じことが起きるんですね。だから、掘り下げようとしながらも、こちら側は力を抜いています。沈黙が降りてきても、慌てて埋めない。黙っているその時間も、相手が今まさに生きている体験なんだと思って、いっしょに待ちます。
体験は、頭じゃなく身体に起きている
体験って、どこにあるんでしょう。
頭の中の記憶のことでしょうか。私は、少し違うと思っています。体験は、身体に起きている。悲しいとき、胸のあたりが重くなります。嬉しいとき、身体がふっと軽くなって、息が深くなる。緊張すると、肩が耳のほうへ持ち上がって、呼吸が浅く速くなる。私たちが「感じる」と呼んでいるものは、たいてい、身体のどこかで起きている出来事なんですね。
だとすると、相手の体験に触れるというのは、つまり、相手の身体に触れていくことに近いです。言葉の奥にある、身体のほうへ近づいていく。
施術では、これを文字通りやっています。相手の足を持って、ゆっくり全身を揺らす。頭のほうまで波が伝わるように、揺すってあげます。すると、緊張している人ほど、ギッコギッコと、ぎこちなく揺れます。「今、力んでるの分かります?」と聞くと、「あ、ほんとだ」と気づく人もいれば、「いや、抜けてますよ」と言う人もいる。どちらでもいいんです。揺らされて、はじめて、自分が今どこにいるかが分かる。少し右に傾いていた、とか、上半身だけ固かった、とか。動きが出て、ようやく位置が見えてきます。
揺らすというのは、固まった防御反応を、すこしずつ解いていくことでもあります。固まっていた身体がゆるむと、感じられるようになる。動けるようになる。すると、自分の体験にも、相手の体験にも、もう一度ひらいていけるんですね。
心も、これと同じ構造で動いていると思っています。相手の話を、いろんな角度から、そっとつついてみる。揺らしてみる。「それって、こういうこと?」「このとき、どんな感じだった?」。決めつけず、潰さず、それでも投げかける。揺れたところに、その人の体験が、ぽろりと立ち上がってきます。自分でも知らなかった気持ちに、本人が触れる瞬間がある。聞くというのは、相手をじっと観察することではなくて、いっしょに身体を揺らしていくことなのかもしれません。
これは、あなたの話でもある
だからこれは、支援職の人だけの、専門的な話ではありません。
あなたが、子供の話を聞くとき。パートナーと向き合うとき。落ち込んだ友達の隣にいるとき。いつも起きていることです。
事実をなぞるのを、少しだけやめてみる。何があったか、ではなく、どう感じたか、のほうへ、入口を開けてみる。自分の体験も、ひとつ返してみる。それだけで、会話はずいぶん変わると思います。受け止めるけれど、閉じこまない。渡し合うのは、出来事の情報ではなくて、体験のほうなんですね。
私塾では、これを、知識としてではなく、身体から学んでいきます。自分の身体がほどけて、自分の体験を感じられるようになると、不思議と、人の体験も受け取れるようになる。セラピストも、ヨガの先生も、看護の人も、コーチも、職業はみんな違うけれど、その土台のところは同じです。そこを、一年かけて、いっしょに耕していく場です。
来週は、その先の話をします。「共感」についてです。共感というと、相手の気持ちに寄り添うこと、相手に集中すること、というイメージがあると思います。でも、ほんとうはもう少し違うと、私は感じています。共感とは、体験の共有なんだ、という話を、次にします。
今日、あなたが誰かと交わした会話を、ひとつ思い出してみてください。そこで確かめ合っていたのは、何があったか、という事実だったでしょうか。それとも、どう感じたか、という体験のほうだったでしょうか。
のんべんだらり、いきましょう。

