頭でわかっても、身体は変わってくれません

身体知の書庫 令和8年4月15日

頭でわかっても、身体は変わってくれません

記号接地問題・概念メタファー・オノマトペ──身体に届く言葉はどこから来るのか

今夜の一冊
ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン『レトリックと人生』(渡部昇一ほか訳、大修館書店、1986/原著 Metaphors We Live By, 1980)
抽象概念のほとんどが身体経験を土台にして組み上がっていることを、膨大な日常語の分析から示した認知言語学の古典。「理解する(under-stand)」が「下に立つ」であるように、言葉の根は身体にある。
手がかり 1
記号接地問題
ハーナッド(1990)が提起した論点。言葉が身体の経験に繋がっていないとき、記号は記号を指すばかりで意味を持たない
手がかり 2
概念メタファー
レイコフ&ジョンソン(1980)の論。抽象概念は身体経験を写像した比喩の積み重ねで出来ている。概念と感覚は地続き
手がかり 3
オノマトペ
「ダラー」「ふわー」「じんわり」──音の中に質感が入っている言葉。身体が再演できる感覚のとっかかりがある
感覚に根を残した言葉 → 身体がかつての感覚を再演する → 身体が動く → 正しい情報がはじめて身体の場所を見つける
↕ 根を抜いた概念だけを渡されると、身体は黙って応答しない
「これだけ勉強しているのに変われないのは意志が弱いからだ」と静かに着地してしまう前に、そもそも順番が逆なのかもしれない、という可能性を置いておきたい一冊です。

「先生の本も読みました。自律神経の動画もたくさん見ました。脱力が大事なこともわかっています。でも、夜になると身体がガチガチで、呼吸が浅くて、結局また眠れません」

こういう方、本当に多いんです。

知識は入っている。理屈もわかっている。でも身体がついてこない。そして、「これだけ勉強しているのに変われないのは、自分の意志が弱いからだ」という結論に静かに着地してしまう。

でも、違うかもしれません。少し一緒に考えてみましょう。

「深呼吸しましょう」と言われて身体がふっとゆるむ方と、「深呼吸しましょう」と言われるとかえって力が入る方、この差は何なのか。言葉は同じなのに、身体の応答がまったく違う。これは意志の強さでは説明がつきません。

ここからはちょっと遠回りになるんですが、身体の側に何が起きているかを、順を追って見ていきたいんです。

まず、身近なところから入りましょう。

「レモン」と聞いた瞬間、口の中に唾液がじわっと溜まりますよね。「犬」と聞けば、毛の手触りとか、近づいてくるときの気配とか、鼻先の匂いが一瞬で立ち上がってくる。身体が勝手に反応してしまう。

「レモン」も「犬」も、よく考えると全部「概念」なんですよ。言葉であって、モノそのものじゃない。なのに身体が動く。

つまり概念そのものが悪者ってわけじゃないんですね。ちゃんと身体を動かす概念もある。

じゃあ、動かす概念と動かさない概念の差は何なのか。

たとえば「クエン酸を含む柑橘類」と聞いても、唾液はあんまり出ません。「四足歩行の哺乳類」と聞いても、胸のあたりはぴくりともしない。中身は「レモン」「犬」と同じなのに、身体はシーンと黙ったままです。

この差は、言葉が「身体でかつて通った感覚に、まだ根を残しているか」なんだと思います。

「レモン」という音は、あの酸っぱさを口で感じた経験に、まだ地下で繋がっている。「クエン酸を含む柑橘類」という言葉は、同じレモンを指しているのに、感覚の根がどこかで切られてしまっている。正確なんですけどね。正確さと引き換えに、身体へのアクセス権を手放している感じです。

ここで少し学術的な補助線をば。認知科学者のジョージ・レイコフと哲学者のマーク・ジョンソンが1980年代から言ってきたのは、人の概念はほとんど身体経験から立ち上がっている、という話です。「理解する(understand)」は「下に立つ」、「把握する(grasp)」は「手でつかむ」、「温かい人」の「温かい」は文字通りの体温の感覚。抽象概念のほとんどは、身体の経験を土台に作られているんですね。

だから概念と感覚は、敵同士ではないんです。もともと地続きのものです。

問題は、この根っこを意識させない形で記号だけを運用したときに起きます。

認知科学者のスティーヴン・ハーナッドが1990年に出した「記号接地問題」という議論があります。ざっくり言うと、言葉が身体の経験に繋がっていないとき、その言葉はどこまでいっても意味を持たない、という話です。ハーナッド自身の比喩は、中国語を中国語の辞書だけで学ぶようなもの。記号から記号へ、メリーゴーラウンドのように回り続けて、どこにもたどり着けない。

「リラックスしよう」「自己肯定感を高めよう」「マインドフルに生きよう」──これらの言葉は、多くの場合、身体にとってこの「中国語の辞書」寄りの位置にいます。意味はわかる。説明もできる。でも、身体が再現できる感覚のとっかかりが薄い。根が抜かれた状態で概念だけが渡されている感じです。

しかも厄介なのは、「リラックスしよう」と頑張るほど、身体がそれを「新しく何かをしなさい」という命令として受け取って、むしろ力んでしまうことです。努力するほど、答えから遠ざかる。

じゃあ、身体はどんな言葉についてきてくれるのか。

感覚に根を残したままの言葉、です。

「ダラーッとしてみましょうか」「ふわっと首を置いておくだけ」「じわーっと足の裏があったかくなる感じ」。こういう言葉を使うと、身体は途端に動き出します。湯船に沈んだあの感触、布団に倒れ込んだときの背中、縁側で伸びている猫のあの気配。音の中にすでに質感が入っているので、身体はかつての感覚を再演できるんですね。

ここには、養老孟司先生が繰り返し言ってきたような、因果の逆転があります。

僕たちは普通、「正しい情報を入れれば身体が変わる」と思っています。でも、臨床で起きていることは逆です。身体に届く言葉を経由したときに、正しい情報がはじめて身体の場所を見つける。

順番が、逆なんです。

そしてここには、社会の話もくっついてきます。

僕たちは子供の頃、オノマトペを山ほど使っていました。泥の「ぐちゃぐちゃ」、水たまりの「ぴちゃぴちゃ」、雪の「ぎゅむぎゅむ」。あれは全部、身体の経験と直結した言葉です。でも、いつからか「ちゃんとした言葉で話しなさい」「もっと論理的に言語化しなさい」と言われ続けて、僕たちはあの言葉を少しずつ手放してきました。代わりに手に入れたのは、身体の根っこから少し離れた場所で、意味だけを操作する技術です。便利なんですけどね。

便利と引き換えに、身体に届く言葉の在庫が、少しずつ薄くなっていったのかもしれません。

だから「脱力して」で脱力できないのは、あなたの意志が弱いからではないんです。身体が感覚の根を通してしか動かない生き物であるのに、根を抜いた概念ばかり渡される社会で、僕たちはずっと暮らしてきた。身体がついてこないのは、それに対する、とても正直な応答だと思います。

夜、「ちゃんとリラックスしよう」と思ってもうまくいかないとき。もう一本、新しい本を読む前に、「ダラー」とか「ふわー」とか、子供の頃に使っていた音を、そのままぽろっと声に出してみてほしいんです。

身体は、根を抜かれた概念には向かってくれません。感覚に根を残した言葉になら、そっと向かってくれます。

変わりたいなら、たぶん、そこが入口です。

参考文献

  • Harnad, S. (1990). "The Symbol Grounding Problem." Physica D, 42, 335–346.
  • Lakoff, G., & Johnson, M. (1980). Metaphors We Live By. University of Chicago Press.
  • Johnson, M. (1987). The Body in the Mind: The Bodily Basis of Meaning, Imagination, and Reason. University of Chicago Press.
  • 今井むつみ・秋田喜美(2023)『言語の本質──ことばはどう生まれ、進化したか』中公新書 2756、中央公論新社.
  • Kanero, J., Imai, M., Okuda, J., Okada, H., & Matsuda, T. (2014). "How Sound Symbolism Is Processed in the Brain: A Study on Japanese Mimetic Words." PLOS ONE, 9(5): e97905.
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「ダラー」が身体をゆるめる。ただのイメージではありません