「ダラー」が身体をゆるめる。ただのイメージではありません

身体知の書庫 令和8年4月10日

「ダラー」が身体をゆるめる。ただのイメージではありません

オノマトペ・想起思考・身体接地──想像力の源泉をめぐる話

今夜の一冊
今井むつみ・秋田喜美『言語の本質』(中公新書、2023)
認知科学者とオノマトペ研究者の共著。擬音語・擬態語が記号接地問題(言葉の意味はどうやって世界と結びつくのか)への一つの答えになると論じ、身体感覚と言語の橋渡しを正面から扱った一冊。
手がかり 1
オノマトペ
「ダラー」「ふわー」「じんわり」──発話すると同時に身体感覚が立ち上がる、記号と身体の両方に属する稀有な言葉
手がかり 2
想起思考
思い出すことも、考えることも、身体に接地した感覚を出所にしている。想像力の元手は身体である
手がかり 3
身体感覚の再演
「ダラー」が効くのはイメージの力ではない。かつて実際にだらっとなった感覚が言葉を通じて呼び戻されるから効く
身体経験 → 感覚が身体に記憶される → オノマトペが発話される → 紐づいた感覚が再演される → 身体が本当にゆるむ
↕ 身体の実感が細ると、想起する元手そのものが痩せていく
「イメージの力」で片付けられるものの多くは、実は身体感覚が言葉を介して再演されているだけなのかもしれません。想像力の出所は、はじめから身体の側にあります。

施術室でよくこんなことがあります。「力を抜いてください」と言うと、その方はなぜかもっと力が入ってしまうんです。でも、「ダラーっとしてみましょうか」と言い直すと、本当にダラーとなる。肩がほどけて、息が落ちていく。

この差は、何なのでしょうか。

オノマトペ──「ダラー」「ふわー」「じんわり」みたいな擬音語擬態語が効くのは、「イメージの力」だとよく説明されます。頭の中に像が浮かぶから、身体がそちらに引っ張られる、と。ざっくり言うとそんな話ですね。

でも、ここで少し立ち止まりたいんです。

そのイメージって、そもそもどこから来ているのでしょうか。

たとえば「レモン」と聞いた瞬間、口の中に唾液がじわっと溜まりますよね。「犬」と聞けば、「四足歩行の哺乳類」みたいな辞書的な定義ではなくて、毛の手触りとか、近づいてくるときのあの気配とか、匂いとかが一瞬で立ち上がってきます。どちらも、かつて身体で経験したことがあるからです。体で通った感覚が、言葉を聞いた瞬間に呼び戻されている。

つまりイメージというのは、どこからか降ってくるものではなくて、身体に接地した感覚を出所にしているんだと思います。身体に接地したものでしか、僕らは想起することも、思考することもできない。

そう考えると、「ダラー」が効く理由が見えてきます。あの音は、たとえばお風呂にずぶっと沈んだ瞬間とか、布団に倒れ込んだときの背中の感じとか、縁側で猫が伸びているのを眺めていたときの空気感とか、かつて実際にだらっとなった記憶のどこかに、こっそり紐づいているんです。声に出した瞬間、その感覚そのものが呼び戻される。だから身体が本当にゆるむ。イメージが効いているのではなくて、イメージという形で身体感覚が再演されているから効く、という順番ですね。

逆から言えば、こうもなります。身体の実感からずっと遠ざかってきた方は、「ダラー」と言われてもイメージが立ち上がりにくいんです。想起する元手が細っているからです。リラックスの本を読んでも、自律神経の動画を見ても、正しい姿勢の知識を頭に入れても、身体のほうはなぜか動いてくれません。「リラックスしよう」と頑張ってうまくいかないのは、精神力が足りないからではなくて、想像力を支えている身体そのものが、先に細ってきているからなのではないか、と感じています。

僕らは子供の頃、オノマトペをたくさん使っていました。泥遊びの「ぐちゃぐちゃ」、水たまりを踏んだ「ぴちゃぴちゃ」、雪を踏みしめるときの「ぎゅむぎゅむ」。あの音たちは、全部身体の経験と直結していました。でもいつからか、「ちゃんとした言葉で話しなさい」「もっと論理的に言語化しなさい」と言われるようになって、少しずつ手放してきたんだと思います。その代わりに得たのは、身体から切り離された言葉で意味を操作する技術です。便利ではあるんですが、代償として、想像力の元手である身体のほうが静かに痩せていったのかもしれません。

夜、「リラックスしよう」と思っても身体がゆるまないとき。論理的な方法を探すより前に、「ダラー」でも「ふわー」でも、子供の頃に使っていた音を、そのままぽろっと声に出してみてほしいんです。たまには記号から離れて、身体のほうに立ち返ってみるのも、案外面白いですよ。

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