喉から手が出るほど欲しい「自己肯定感」──実感は身体にある──ウィリアム・ジェームズと、感情の身体起源
喉から手が出るほど欲しい「自己肯定感」──実感は身体にある
ウィリアム・ジェームズと、感情の身体起源
心拍・筋緊張・呼吸
身体の変化を知覚
怖い・悲しい・嬉しい
自己肯定感の「大丈夫だ」という感じもまた、
身体の物理的な状態から立ち上がっている。
「自己肯定感を高めようとしてるんですけど、なかなかうまくいかなくて」
──対人支援の現場で、この言葉を聞かない月はない。身体に触れると、ほとんどの場合、胸郭が閉じている。
「自己肯定感を高めたい」
この言葉が、いつのまにか日常語になった。書店に行けば「自己肯定感」と帯に書かれた本が棚を占め、SNSを開けば「自己肯定感の高め方」がタイムラインに流れてくる。仕事がうまくいかないのは自己肯定感が低いから。恋愛がうまくいかないのも、人間関係がしんどいのも、朝起きるのがつらいのも──自己肯定感が低い、あなたのせいだと言わんばかりである。
市場は大きい。ある心理カウンセラーの自己肯定感シリーズは累計四十五万部を超えた。「自己肯定感の教科書」「自己肯定感ノート」「自己肯定感LESSON帖」。肯定感を高めるための方法が、次々と言葉で差し出されている。プライベートと個人的な課題から枝を伸ばし、ビジネスと接続したコーチングや自己啓発、能力開発まで、かなり市民権を得てきた。中にはちょっと無理がある理屈で、兎跳び1000回すれば成功します。ほらできたでしょ、もしくは、やっていないから成功しないんでしょう、という強引なものもある。別の切り口では、自己肯定感が低いのはHSPだから繊細さんだから仕方ない。小さな工夫をしてみよう、という優しいものまで用意されている。
それが誰かを救っているのだと思う。思考を整理し、自分の癖に名前がつき、「あ、自分はこういうパターンだったのか」と腑に落ちることで、確かに楽になる人がいる。本を読んで変わった、カウンセリングを受けて変わった。そう語る人たちの言葉は本物だと思う。覚悟や意志の力で人生の見え方が変わることは、実際にある。
ただ、対人支援の現場でリアルな人と触れていると、少し違う風景も見えてくる。
「自己肯定感を高めようとしているんですけど、なかなかうまくいかなくて」。そう言ってセッションを受けに来る方がいる。本を読んだ。アファメーションもやった。ジャーナリングもやった。それでも、ふとした瞬間に「やっぱり自分はダメだ」が戻ってくる。もう何年も、同じところを回っている気がする、と。
そうした方の身体に触れると、ほとんどの場合、不調を抱えていたり、もしくは痛みやこりなんてほとんど感じたことがない、という。実際に触れてみれば、胸郭が閉じている。肋骨の動きが乏しく、呼吸は浅い。横隔膜は硬く、肩は耳に向かって持ち上がっている。頸椎から肩甲骨にかけて、ガチガチ。興味深いのは、わたしの「問いかけ」に答えるときほど、この緊張は強まるということだ。こうありたい、こうなんだ私は、と意固地になっているような。
身体が、閉ざされている。
ここで私が「だから自己肯定感を高めようとするのは間違いだ」と言いたいのではない。そうではなく、自己肯定感という現象のメカニズムの中に、見落とされている要素、変数があるのではないか、という話をしたい。
百三十年前の転倒
自己肯定感。漢字が5文字も並んで、なんともたいそうな言葉に見える。この言葉をじっと見つめると、末尾に「感」がある。感情の「感」。感覚の「感」。肯定は行為であり、思考の領域に属する。しかし「感」は、感じることだ。自己肯定感とは、突き詰めればこうした「感じ」のことだ。
では、「感じる」とは何か。ここに、百三十年前にひとつの大胆な転倒を試みた人物がいる。
ウィリアム・ジェームズ。一八四二年にニューヨークに生まれた。父はスウェーデンボルグ神秘主義に傾倒した思想家、弟は小説家ヘンリー・ジェームズ。知的環境には恵まれていたが、本人は若い頃から抑うつに苦しみ、ハーバード大学で医学を修めたものの開業はしなかった。かわりに生理学から心理学へ、心理学から哲学へと渡り歩き、アメリカの哲学・心理学の地図を塗り替えた。プラグマティズムの創始者のひとりであり、現代心理学の父とも称される人物である。
彼が一八九〇年に発表した大著『心理学原理』の中に、感情に関する一節がある。後に「ジェームズ=ランゲ説」と呼ばれることになるこの主張は、当時の常識を根底から覆すものだった。
常識はこう言う。悲しいから泣く。怖いから逃げる。嬉しいから笑う。まず感情があり、それが身体反応を引き起こすのだと。
ジェームズはこう言った。それは違う。泣くから悲しいのだ。逃げるから怖いのだ。笑うから嬉しいのだ。まず身体反応があり、その身体反応を知覚することが感情なのだ、と。
刺激を受けた身体が、心拍を速め、筋肉を緊張させ、呼吸を変え、血管を収縮させる。その身体の変化を脳が読み取ったものが、「怖い」「悲しい」「嬉しい」という経験になる。感情は頭の中で生まれるのではない。身体の中で生まれ、頭がそれを読んでいる。
この説は後にキャノンやバードによって批判され、現在の神経科学では単純な一方向の因果としては支持されていない。身体→感情だけでなく、脳→身体→感情のフィードバックループが存在し、感情の生成はもっと複雑だということがわかっている。ジェームズの説には修正が必要だった。
しかし、修正を経てなお残るものがある。感情の生成に身体が関与しているという事実は、その後の百三十年間、繰り返し確認されてきた。記事07で触れたダマシオのソマティック・マーカー仮説も、身体状態が意思決定を方向づけるという知見であり、ジェームズの直感の延長線上にある。感情には身体的な基盤がある。これは覆されていない。
「感」は、身体で起きている
ここで、自己肯定感に戻ってみよう。
「自分は大丈夫だ」と感じること。「自分にはここにいる価値がある」と感じること。「自分はこのままでいい」と感じること。自己肯定感とは、突き詰めればこうした「感じ」のことだ。
ジェームズの洞察を踏まえて問いを立ててみる。この「大丈夫だ」という感じは、どこで生まれているのか。
思考で「大丈夫だ」と自分に言い聞かせることはできる。アファメーション──「私は価値のある存在です」と毎朝繰り返す。認知行動療法的に、自動思考のパターンを書き換える。これらのアプローチが人を助けることはある。思考を変えることで感情が変わる経路は実在する。
しかし臨床で少し気になるのは、「頭ではわかっているのに、感じられない」という声が少なくないことだ。理屈では自分を肯定できる。自分には友達がいて、仕事もそこそこできて、健康で、恵まれている。小さな目標を設定し、地道にこなしていく。売り上げや実績が数字で積み上がる。二人の息子を育てたのだ。わたしはすごい。褒められる。肯定できる。わかっている。わかっちゃいるんだけれども、でも「大丈夫だ」が体感として湧いてこない。
ジェームズならこう言うのではないかと思う。感じられないのは、身体がまだ「大丈夫」の状態にないからだ、と。
ここに自己肯定感の見落とされている要素がある。
「大丈夫だ」と感じることは、身体的な出来事でもある。呼吸が深く、胸が開き、横隔膜が自由に動いている。肩の力が抜け、足裏で地面を踏んでいる。重力に対して身体が無理なく立っている。こうした身体の状態のとき、私たちは言葉にしなくても、どこかで「大丈夫だ」と感じている。いや、感じているというより、身体がそのような状態にあること自体が、「大丈夫だ」の実体なのではないかと思う。
逆に、胸郭が閉じ、呼吸が浅く、横隔膜が硬く、肩が上がり、頸椎が前に突き出ている場合。血流や神経系、内臓などの機能も十分に発揮されず、身体はなんとももどかしく感じているだろう。──そういう身体の状態は、それ自体が「大丈夫ではない」のシグナルを出し続けている。脳はそのシグナルを受け取り、不安や自己否定として経験する。思考で「大丈夫だ」と言い聞かせても、身体が「大丈夫ではない」と発信し続けていれば、その信号は途切れない。
二つの経路
ここで整理しておきたい。
自己肯定感を高める経路は、少なくとも二つある。
ひとつは、思考から入る経路。認知行動療法、アファメーション、ジャーナリング、カウンセリング。思考のパターンを変えることで、感情に影響を与える。この経路は実在するし、効果がある。認知の再評価が脅威の評価を下げ、身体の防御反応が緩み、結果として身体の状態も変わる──そういうことは十分にあり得る。記事03で触れた沢庵禅師の「不動智」も、ある意味ではこの経路の一つの形だろう。
もうひとつは、身体から入る経路。呼吸を深くする。肋骨を動かす。横隔膜を緩める。胸椎の可動性を取り戻す。同時に、内臓レベルでも、神経や血管、そして細胞レベルでも、ホメオスタシスが十分に保たれる。身体の物理的な状態を変えることで、身体が発するシグナルが変わり、脳が読み取る「感じ」が変わる。
どちらが優劣か、正しいかではない。どちらも実在する経路だ。
ただ、現在の自己肯定感ブームの中で、二つ目の経路──身体から入る経路──はほとんど語られていない。「自己肯定感を高める方法」として列挙されるのは、思考の書き換え、環境の整備、習慣の改善、対人関係の見直し。身体の状態そのものに触れるアプローチは、驚くほど少ない。あってもこれらは言語で規定しづらいほどの情報量を持っているがゆえに、全体を伝えようと思うと、とてもふんわりとした言葉になることが多い。わたし自身も苦労したし、こうした非言語的な全能感を悪用するスピリチュアル界隈があることも事実だ。
自己肯定「感」の話をしているのに、「感」を生み出している身体に触れていない。これは不思議なことだと思う。
身体が「大丈夫」を知っている
もう少し踏み込んでみたい。
散歩をして気分が晴れた経験は、おそらく誰にでもある。深呼吸をしたら少し楽になった。温泉に入ったら悩みがどうでもよくなった。子供とキャッチボールをしたら笑っていた。
これらは特別な出来事ではない。当たり前のことだ。説明されなくたって、学術的なソースを出されていなくたって、経験があればわかる。だからこそなのかもしれないが、「なぜ身体が変わると気持ちが変わるのか」を、私たちはあまり突き詰めて考えてこなかった。気分転換になるから。リフレッシュできるから。そういう曖昧な説明で済ませてきた。
ジェームズの転倒を引き受けるなら、こう言える。散歩して気分が晴れるのは、歩くことで身体の状態が変わり、変わった身体の状態を脳が「大丈夫だ」として読み取っているからだ。歩いている間、肩が下がり、呼吸が深くなり、胸が開き、横隔膜が動く。持てる機能を十分に発揮できていて、動き、循環し、刺激を受けて回復している。まさに「生きている実感」であり、身体が、物理的に「大丈夫」の状態に近づいている。
施術室でも同じことが起きている。施術を受けて胸郭が開き、肋骨が動き始め、呼吸が変わる。そのとき多くの方が「大丈夫な気がしてきました」と言う。何かを考えたわけではない。誰かに励まされたわけでもない。僕のアドバイスがあったから気づけたという人もいるが、多分違うんじゃないかなと思う。なぜなら、僕が話すことはおそらく他の誰かも経験しているし、勉強熱心な人ほどその言葉にはすでに触れているはずだからだ。だから、新しい知識を得たからではなく、身体が変わったから、「感じ」が変わった、のだろう。
自己肯定感の「感」は、身体の状態から生まれている側面がある。このことに気づくと、「自己肯定感が低いのは自分のせいだ」という苦しみの構図が、少し変わってくる。
あなたのせいではない
自己肯定感が低い。この言い方には、暗黙の前提がある。「肯定する力」が自分の中にあるべきで、それが足りない、という前提。
しかし身体の側から見ると、景色が違う。胸郭が閉じ、呼吸が浅く、身体が防御モードに入っている状態は、その人の「力不足」ではない。長時間のデスクワーク、慢性的な睡眠不足、対人関係のストレス、幼少期からの身体的な緊張パターン──さまざまな因果が積み重なって、身体がその構えになっている。その構えから「大丈夫ではない」というシグナルが出続けていて、それを脳が「自己肯定感が低い」として読み取っている。
あなたの肯定する力が足りないのではない。身体がまだ「大丈夫」の状態にないだけかもしれない。
もちろん、すべてが身体に還元されるわけではない。その原因をつくったのは、幼少期の養育環境、社会的な承認の有無、経済的な安定の場合もある。やっぱり環境や立場で人は変わっていく。変化して適応する。このように自己肯定感に関わる変数は無数にあって、身体はそのうちのひとつでもある。
しかし、すべての変数を感じ取っている場所が、この身体である。どんなに環境が整っていても、身体がそれを受け取れる状態になければ、「大丈夫だ」は実感として立ち上がらない。身体は変数のひとつであると同時に、すべての変数を感じ取る場所でもある。なんだか、「わたし」というのはイコール「身体」でもあるようだなと思う。
ジェームズが開いた扉
ウィリアム・ジェームズが百三十年前に提出した転倒──「泣くから悲しい」──は、単純すぎるがゆえに修正を受けた。感情のメカニズムはもっと複雑で、身体と脳のあいだには双方向のフィードバックがある。
しかしジェームズが開いた扉は、今も開いたままだ。感情は、身体の中で生まれる。すべてではないにしても、少なくとも一部は、身体の物理的な状態から立ち上がっている。
自己肯定感も、例外ではないのではないかと思う。
肯定感の「感」は、身体にある。それは思考をきっかけに「高める」ことができるものであると同時に、身体が「感じる」ものでもある。どちらの経路も存在する。ただ、身体という経路があまりにも語られていない。
ジェームズは若い頃、深刻な抑うつに苦しんだ。その苦しみの中から、「身体が変われば意識が変わる」という直感に触れた。彼の哲学──プラグマティズム──は、知識を行為の中で検証する思想であり、「身体で動くこと」に根を持っている。百三十年前のこの直感が、今の時代にようやく追いつかれようとしている気がしてならない。わたし自身も、この大先輩の持つ人生を大きな思想にシンパシーを感じられて、誇らしさすら感じる。時代を超えて、身体を感じる。繋がりを感じるのだ。
施術室で、胸郭が開いて深い呼吸が入ったとき、「なんか大丈夫な気がする」と言う方の表情を、私はもう何度も見てきた。その「なんか」の中に、自己肯定感の正体の一端があるように思う。
あなたの身体は、頭がまだ知らない「大丈夫」を、もう知っているかもしれない。そして、それは身体だ。ほぐせば解ける。動かせば感じられる。関われば反応する。身体には希望があるのだ。

