「感謝しなさい」では感謝できない──アントニオ・ダマシオと、身体から始まる感情の話

身体知の書庫 令和8年2月18日

「感謝しなさい」では感謝できない

アントニオ・ダマシオと、身体から始まる感情の話

今夜の一冊
The Strange Order of Things: Life, Feeling, and the Making of Cultures
アントニオ・ダマシオ(Antonio Damasio)── 神経科学者。ソマティック・マーカー仮説の提唱者。
手がかり 1
ホメオスタシス
身体の調整状態。感情はその「精神的な表現」であり、身体の報告書である。
手がかり 2
情動から感情へ
身体のプロセスが先、精神の経験が後。名前をつけるのはさらにその後。
手がかり 3
記号の限界
愛や感謝は記号操作では製造できない。身体が開いた状態の因果的な結果。
意外な順序 ── 身体が先、記号は後
ホメオスタシス
38億年前〜
情動
身体のプロセス
感情
精神の経験
記号・言語
ここから先は「翻訳」

私たちは「記号→感情」の順で考えがちだが、実際は逆。
身体の調整状態がすべての起点にある。

「感謝の気持ちを持とうと思ってるんですけど、どうしてもうまくいかないんです」
──ある日の施衇室で。身体が閉ざされた状態で、感情の実感は立ち上がらない。

「感謝の気持ちを持とうと思ってるんですけど、どうしてもうまくいかないんです」。

仕事で助けてもらったのに、心からありがたいと思えない。パートナーがそばにいてくれることに、愛情を感じたいのに、頭では「ありがたい」と思っているのに、なんだか自分が冷たい人みたい。その方のからだは、ギチギチに固まっていました。胸郭がほとんど動いていない。呼吸運動の要である胸郭、肋骨が縛られてギチギチしているような。横隔膜は硬く、内臓はその下で動きのないまま、ぼったい感じ。身体がこれだけ閉ざされている状態で、感謝という実感が得られないのは仕方がない。

この方は冷たい人間かというと、そうではないと思うのです。むしろ、感謝できないことを苦しんでいる時点で、とてもまっとうな感覚を持った方だと思いました。おそらく以前は無意識に感じられていた感謝の実感が、今は静まり返ってしまっている事に奇妙さを感じている。問題は性格ではなく、身体の状態でした。ここを、少し丁寧に考えてみたいと思います。

「感謝しなさい」「愛を持ちなさい」「ポジティブでいなさい」。こういう言葉は世の中にあふれています。自己啓発書にも、SNSにも、学校教育の中にも。でも、考えてみてください。感謝や愛は、「しなさい」と言われてできるものでしょうか。それはちょうど、「消化しなさい」「血液を循環させなさい」と命令するのと同じくらい、おかしなことなんじゃないかと思うのです。感謝も愛も、頭で作り出す記号ではなく、身体の中から立ち上がってくるものだからです。

この直感に、神経科学の側から精緻な言葉を与えてくれた人がいます。アントニオ・ダマシオ。ポルトガル出身で、現在は南カリフォルニア大学の脳と創造性研究所の所長を務める神経科学者です。『デカルトの誤り』で「理性と感情は分離できない」というテーゼを提示して世界的に知られるようになり、その後も一貫して「感情は身体に根ざしている」ということを、神経科学の立場から探究し続けている。代表的著作のひとつ『The Strange Order of Things(進化の意外な順序)』を読んだとき、臨床の中で感じていたことが、ぐっと輪郭を持った感覚がありました。

感情は身体の「代理人」である

ダマシオの議論の核心にあるのは「ホメオスタシス」という概念です。恒常性とも訳されます。生命は、体温や血糖値やpHを一定の範囲に保つことで存続している。この調整機構がホメオスタシスです。ダマシオが独特なのは、このホメオスタシスを単なる生理学の話に閉じ込めず、感情や文化の起源にまで射程を伸ばしたところです。

彼の主張を端的に言えば、こうなります。感情(feelings)は、ホメオスタシスの精神的な表現である。つまり、身体の内部状態が「いまどういう方向に向かっているか」――生きることにとって良い方向なのか、まずい方向なのか――を、精神に伝えるための信号が、感情なのだと。身体がうまく機能しているとき、ホメオスタシスが良好なとき、私たちは快い感覚を覚える。機能が低下しているとき、不快な感覚が立ち上がる。感情とは、その報告書のようなものだというのです。

これを読んだとき、私が「原感覚」と呼んでいるものとの共鳴を感じました。原感覚とは、身体を構成するすべてのシステム――心臓も、内臓も、筋肉も、神経も、細胞も――の物理的状態が発する情報です。身体合理性が高いとき、つまり生理的な運動や代謝や機能がちゃんと発揮されているとき、「快」の原感覚が立ち上がる。発揮されていなければ「不快」が立ち上がる。ダマシオは神経科学の言葉でこれを「ホメオスタシスの精神的表現」と呼び、私は臨床の言葉で「原感覚の快/不快」と呼んでいる。見ている景色はかなり近いのだと思います。

順序が逆だった

ダマシオが『The Strange Order of Things』で提示した最も重要な洞察は、タイトルが示すとおり、「順序の意外さ」です。私たちは普通、こう考えてしまう。まず知性があって、理性的に考えて、それから感情が生まれる。あるいは、まず出来事があって、それを解釈して、感情が起きる。つまり、思考が先で感情が後。でもダマシオは、この順序が逆だと言うのです。

ホメオスタシスは38億年前、最初の生命体から存在していた。神経系が登場するのは約6億年前。意識を伴う感情が生まれるのはさらにその後。そして言語や文化が生まれるのはずっとずっと後。つまり、身体の調整システムが最初にあり、感情はそこから生まれ、知性や文化はさらにその後に来た。知性が感情を生み出したのではなく、感情が知性を動かしてきたのだと。言語も社会性も知識も理性も、それら自体が文化を生み出す実行者ではあるけれど、その実行者を動機づけてきたのは感情なのだ、とダマシオは考えたわけです。

この「順序の逆転」は、施術室で日々感じていることそのものです。クライアントの方が「頭ではわかっているんですけど」と言うとき、まさにこの順序の勘違いが起きている。頭で「感謝すべきだ」と理解しても、身体がその感謝を生み出せる状態になければ、実感は湧かない。理性で感情を製造することはできない。そうできると信じている人は多いのだけれど。

「愛」という記号が壊れるとき

少し具体的な話をしてみます。「愛している」という言葉があります。パートナーに向けて、子供に向けて、親に向けて。でもこの言葉を口にしたとき、胸のどこかがふわっと温かくなる人と、何も感じない人がいる。伝えたくて口をついて出てくる人と、相手が喜ぶから、という人がいる。同じ記号――「愛」という文字列――を使っているのに、身体で起きていることがまるで違う。

ダマシオが厳密に区別したのが、ここです。英語では emotion と feeling が日常的にほぼ同義で使われますが、ダマシオはこの二つを明確に分けました。emotion(情動)は身体で起きるプログラム――心拍の変化、筋肉の緊張や弛緩、ホルモンの分泌、表情の変化――のこと。feeling(感情)は、その身体的変化を精神が感じ取った主観的経験のこと。つまり、まず身体のプロセスとしての emotion があり、それを内側から感じ取ったものが feeling なのです。名前が同じだから混同されるけれど、実際にはレイヤーが違う。

この区別を踏まえると、「愛しているけど実感がない」という状態がよく理解できます。「愛」という記号(言葉)は持っている。でも emotion のレベル――身体の中で起きるはずの温かい弛緩、呼吸が深くなる感覚、胸が開く感じ――が起きていない。身体が閉ざされた状態では、emotion が発火しない。発火しなければ、feeling も立ち上がらない。記号だけが宙に浮いている。

これは愛に限った話ではありません。感謝も同じです。「ありがたい」と頭で思うことと、胸の奥がじんわりと温かくなって、思わず涙がこみ上げるような感謝の実感は、まったく別物です。前者は記号操作、後者は身体のプロセス。ダマシオの枠組みで言えば、前者は言語による概念処理であり、後者はホメオスタシスの良好な状態が許す身体反応と、それを精神が受け取った feeling なのです。

記号をこねくり回しても、たどり着けない場所

ここで「思考の檻」の話につながります。私が繰り返し使ってきた言葉です。身体が閉ざされた状態では、思考が暴走する。認知の領域だけで完結するループに陥る。記号が記号を生み、実感のないナラティブの海へ沈んでいく。ゲームの中しか知らなければ、人の物理的な温かさは感じられないのは当たり前ですよね。裸で抱きしめ合うあの時のあたたかさを、多くの方は思い出せるはずです。本を読んでも、あたたかさを辞書で引いたとしても、ディープリサーチを用いても、身体を通してしか経験できない。

「愛とは何か」を机上でいくら考えても、それだけでは愛がわかるようにはならない。「感謝とは何か」を定義しても、感謝の実感は得られない。これはジェンドリンが前の記事で示してくれたこととも重なります。頭で考えた言葉を身体に貼りつけるのと、身体が承認した言葉を見つけるのとでは、まったく違うプロセスだということ。「愛している」という記号を身体に貼りつけても、身体がその記号を承認しなければ、それは空転する概念にすぎません。

私がこの時代に特に危うさを感じるのは、記号操作の道具がどんどん精巧になっていることです。SNSのタイムラインは「感謝」や「愛」や「自己肯定」という記号であふれている。成功のための道具として、この言葉を使うさもしい人間たちも増えています。LLM(チャットGPTなど)に「愛とは何ですか」と聞けば、もっともらしい答えが即座に返ってくる。美しい言葉が無限に生成される。でもそれは、身体を通過していない記号の集積です。記号の精度がいくら上がっても、身体が閉ざされていれば実感は生まれない。ダマシオが言うように、感情は身体と脳の協働から生まれるものであって、言葉の操作から生まれるものではないのです。生まれるものではなく、あなたが実感して経験したものを思い出させるものが、記号なのです。

内受容感覚――身体の内側からの手紙

ダマシオが重視するのが「内受容感覚(インテロセプション)」です。これは、心拍、呼吸、内臓の状態、筋肉の緊張――自分の身体の内側から上がってくる情報を受け取る感覚のことです。ダマシオはこれを、身体の内部で行われる大規模な偵察・報告活動だと形容しています。この偵察の結果が脳に届き、統合されたものが feeling になる。

たとえば、信頼できる友人と静かに話しているとき。意識していなくても、心拍はゆっくりになり、呼吸は深くなり、肩は自然と下がる。この身体の変化を、内受容感覚が拾い上げ、精神に届ける。それが「安心」や「温かさ」という feeling として経験される。「この人と一緒にいると安心する」という実感は、身体のプロセスが先にあって、それを内受容感覚が報告した結果なのです。

私が臨床で見てきたのは、この内受容感覚がうまく機能していない方が非常に多いということです。前の記事でHSPについて書いたとき、「内受容感覚が十分に機能していないから、外部の信号に頼らざるを得ない」という話をしました。同じ構造がここにもあります。自分の身体の内側の変化を感じ取れなければ、感謝や愛といった feeling は成立しない。情報が届かないのですから。身体で何かが起きていても、それを受け取る回路が閉ざされていたら、私たちはそれを feeling として経験することができない。

ダマシオと原感覚——レイヤーの違い

ダマシオの理論と私の使っている言葉との関係を、少し整理しておきたいと思います。前の記事でジェンドリンのフェルトセンスとの違いを書きましたが、ダマシオとの関係もまた、似ているようでレイヤーが異なります。

ダマシオが言うfeelingは、ホメオスタシスの精神的な表現――つまり「身体の調整状態を精神が感じ取ったもの」です。これは認識のレベルの話です。一方、私が「原感覚」と呼んでいるものは、身体を構成するシステムの物理的状態そのものが発する情報で、認識の有無に関わらず常に立ち上がっている。心臓が疲労していれば、本人が気づいていなくても不快は立ち上がっている。ダマシオのfeelingは「精神が受け取った時点」を起点にしていますが、原感覚はその手前――身体の物理的状態そのもの――を起点にしています。

とはいえ、大事なところで方向は同じです。どちらも「身体が先、思考は後」と言っている。どちらも「認知だけでは本当の変容は起きない」と知っている。どちらも「感情は身体のプロセスであって、記号操作ではない」と言っている。ダマシオは神経科学の言葉で精緻に記述し、私は鍼灸師の手で毎日触れている。経路が違うだけで、見ている方向はとても近いのだと感じています。

「感謝しなさい」が暴力になるとき

ダマシオの理論を踏まえると、「感謝しなさい」「愛を持ちなさい」という言葉がなぜ暴力になりうるかがはっきりします。それは、身体のプロセスを記号で命令しようとしているからです。「血圧を下げなさい」と言っても血圧は下がらない。同じように、「感謝しなさい」と言っても感謝の feeling は生まれない。

ここには以前の記事で書いたハン・ビョンチョルの「励ましという暴力」と同じ構造があります。誤解のないように書いておきたいのですが、カウンセリングや心理的なアプローチで感情を受け止め、言葉にしていくプロセスは、間接的に身体感覚を受容する経路として機能しています。ジェンドリンのフォーカシングもそうでした。私が問題にしたいのは、身体の声を聞く前に「前を向こう」「ポジティブに考えよう」と記号で上書きしようとする行為のほうです。「感謝しなさい」もそう。身体がまだ感謝を生み出せる状態にないのに、記号だけを先に要求する。その結果、「感謝できない自分は冷たい人間だ」という自責が生まれる。これは身体の問題を性格の問題にすり替える暴力です。あなたが冷たいのではない。身体が閉ざされているだけなのです。

ダマシオが興味深いことを書いています。人は愛を感じ、愛されていると感じるとき、特別な行為をしなくても、免疫応答が向上するなど、生理的なパラメータが好ましい方向に動くのだと。つまり、愛は身体にとって具体的な生理的事実なのです。記号ではなく、身体の状態の変化そのものなのです。逆に言えば、身体の状態が整えば、愛や感謝は「努力して感じるもの」ではなく、自然に立ち上がってくるものになる。

実感の回復に向けて

では、どうすればいいのか。ダマシオの理論は記述としては見事ですが、「どうすれば内受容感覚を回復できるか」については、具体的な方法を提示しているわけではありません。ダマシオは「なぜそうなるのか」を神経科学で記述することに長けているけれど、「具体的にどうするのか」という実践の回路は、そこにはない。一方で、私たちのような臨床家には、哲学者のような精緻な理論構築はなかなかできません。上下の話ではなく、それぞれの身体を持ったそれぞれの立場から、気づくものが異なるということなのだと思います。

私が実践の中で見ているのは、身体合理性が回復するにつれて、感情の実感が自然に戻ってくるということです。ガチガチだった肋骨が動き出し、呼吸が深くなり、内臓への圧迫が取れていく。すると、「なんか最近、ちょっとしたことでじんとくるんです」と言われることがある。映画を観て泣けるようになった。子供が笑っているのを見て、胸が温かくなった。パートナーに「ありがとう」と言ったとき、初めて本当にそう思えた気がした、と。

これは、感謝や愛を「教えた」わけではありません。身体の状態が変わったことで、ホメオスタシスが改善し、emotion のプログラムが正常に発火するようになり、feeling として受け取れるようになった。ダマシオの言葉で言えば、内受容感覚が本来の機能を取り戻し、身体の良好な状態の報告が精神に届くようになった。私の言葉で言えば、原感覚の「快」が増え、「開かれ」の状態に移行したことで、世界との出会い方が変わった。結果として、感謝や愛という feeling が、命令されなくても自然に立ち上がるようになった。

ここが大事だと思うのです。感謝は、身体が十分に開いた状態の因果的な結果であって、意志によって製造するものではない。愛もそう。「温かなつながり」を目標として掲げるのではなく、身体合理性が回復した状態の自然な帰結として記述する。これは私が一貫して言ってきたことですが、ダマシオの理論はその科学的な裏付けを与えてくれているように感じます。

記号の向こうにある身体

最後に、ひとつだけ。

ダマシオは『The Strange Order of Things』の中で、科学だけでは人間の経験のすべてを照らすことはできないと書いています。芸術や人文学の光も必要だと。これはとても誠実な態度だと思いました。神経科学者でありながら、科学の限界を認めている。私もまた、鍼灸師という小さな持ち場から、身体という変数に光を当てている一人にすぎません。身体性を認識して介入していくだけがすべてではない。友人と一晩酒を交わせば、恋人とDMのやり取りをしたり、好きなアーティストのライブに行けば、身体性が引き出されます。そしてこれは、臨床やセッションでは到底及ばない、協力な働きかけです。

でも、身体性の解像度が低いままでは、感謝も愛も、感動も、記号のままです。

もし今、「感謝しなきゃ」「愛さなきゃ」と頑張っているのに、胸のあたりが空っぽだと感じている方がいたら、それはあなたの性格の問題ではないということを伝えたいのです。身体が閉ざされた状態で、感情の実感を要求するのは、暗い部屋で色を見分けろと言っているようなもの。まず必要なのは、光を入れること。身体を開くこと。そこから始めれば、感謝も愛も、考えなくても――いえ、考えないからこそ――自然に立ち上がってくるはずです。

我我々のように身体性を学び、高めていこうとする営みもとても楽しいです。おすすめできる。面倒だぜ、という方は、ライブでも宴会でも、絵を描くでも山に登るでも、好きなことがあればそれをやればよろしい。おそらくそれは、あなたの身体合理性を高めてくれるきっかけになるものなのでしょう。

きっとこれを読んでくださっているあなたの身体にも、まだ言葉になっていない温かさが眠っている。それは記号の向こう側に、ずっと前からあるものです。

参考

アントニオ・ダマシオ『The Strange Order of Things: Life, Feeling, and the Making of Cultures』(Pantheon Books, 2018年)

アントニオ・ダマシオ『デカルトの誤り──情動、理性、人間の脳』(田中三彦訳、ちくま学芸文庫、2010年)

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