毎日が同じことの繰り返しでむなしい

身体知の書庫 令和8年7月7日

毎日が同じことの繰り返しでむなしい

岩を押し続けた男の話

今夜の一冊
シーシュポスの神話(清水徹訳・新潮文庫)
アルベール・カミュ(Albert Camus)── フランスの作家。1942年刊。
手がかり 1
むなしさの正体
きついのは繰り返しそのものではなく、「これは何のためだろう」という、意味が見えないことのほう。
手がかり 2
希望の置きどころ
「いつかいい結果が来る」ではなく、いま動いていること自体に、希望を置き直す。
手がかり 3
効き目より気持ちよさ
「効いたか」の採点を一回お休みして、「気持ちよかったか」で振り返る。
むなしさから抜ける道筋
「いつか」に
希望を預ける
むなしさが増す
いま押している
ことに希望を置く
結果ではなく動き
注意を
気持ちよさへ
「効いたか」から

結果を求めるのは弱さではなく、社会がその採点のしかたを推奨しているから。
注意の向け先を変えることだけが、自分で選べる。

無意味だと分かっていることを、それでも夢中で押していく。
それ自体を、希望と呼んでもいいと思うんです。

毎日、同じことの繰り返しだなあと思うことはありませんか。

朝起きて、仕事に行って、帰ってご飯を作って、寝ると、また朝が来ます。洗った食器はまた汚れて、片づけた部屋はまた散らかります。

で、ふとした瞬間に「これは何のためにやってるんだろう」という思いが浮かんでくるのです。

今日はこのむなしさの話です。先に、中身を全部言ってしまいます。三つあります。

① むなしさのもとは、繰り返しそのものではなく、「意味がない気がすること」のほうです。

② 昔、岩を永遠に押し続けさせられた男がいて、ある作家がこの男の中に出口を見つけました。鍵は、希望の置きどころです。

③ 実践は一つだけです。何かをやったら、「効いたか」ではなく「気持ちよかったか」で振り返ります。

この三つで腑に落ちた方は、ここで読み終えても大丈夫です。ここから順番にほどいていきます。

① この罰の、どこがいちばんきついのか

ギリシャ神話に、シーシュポスという男が出てきます。神々を怒らせて、罰を受けた男です。

罰の内容は、大きな岩を山のてっぺんまで押し上げることです。ただし、あと少しで頂上というところで、岩は自分の重さで転がり落ちてしまいます。彼はふもとまで下りて、また押し上げる。これが永遠に続きます。

この神話を、一九四二年、二十代の終わりのフランスの作家が一冊の本にしました。名前はあとで出します。

彼が面白いのは、この罰のどこがいちばんきついのかを、じっと見ているところです。本人の言葉では、こうです。

「無益で希望のない労働ほど怖ろしい懲罰はない」。

岩は重いし、坂もきつい。ただ、いちばんこたえるのはそこではない、というのです。「やってもどうせまた落ちる」と本人がわかっていること。そこだ、と。

同じ力仕事でも、家を建てているなら話が違います。きつくても、柱が立って屋根がのって、汗をかいたぶん積み上がっていきます。

シーシュポスの岩は、積み上がりません。明日もまたゼロからです。しかも本人がそれを知っています。

無意味だと、自分でわかっている。

これがこの罰の芯です。なので、私たちの繰り返しも同じ形をしているのだと思います。家事も通勤も、動作そのものはこなせてしまいます。きついのは、ふと浮かぶ「これは何のためだろう」のほうなのです。

② なぜ「この男は幸福だ」とまで言えたのか

さて、この作家は意外な場面に目をつけました。

ふつうこの神話でイメージするのは、歯を食いしばって岩を押し上げる場面だと思います。ただ、彼がいちばん見つめたのはそこではありません。岩が落ちたあと、ふもとまで下りていく時間です。

「こうやって麓へと戻ってゆくあいだ、この休止のあいだのシーシュポスこそ、ぼくの関心をそそる」。

下りのあいだ、シーシュポスは手ぶらで、頭は暇です。で、その頭には「下りたら、また同じことをやるのだ」とはっきり見えています。自分の状況がいちばんくっきり見える、ごまかしのきかない時間です。

ふつうなら、ここがいちばんつらいはずです。人はこういうとき、「いつか終わるかも」「いつか報われるかも」という「いつか」を頭に置いて、目をそらしますから。

ただ、シーシュポスにはその手が使えません。終わらないことが確定しているので、ごまかす材料がないのです。全部見えたまま、坂を下りて、また岩に手をかける。

作家はそこに、この男の強さを見ました。

「どの瞬間においても、かれは自分の運命よりたち勝(まさ)っている。かれは、かれを苦しめるあの岩よりも強いのだ」。

そして本の最後を、こう結びます。

「頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ」。

強い、まではわかります。ただ、幸福は飛びすぎではないか。私も最初はそう思いました。この飛びを埋める鍵が、彼の「希望」の扱いです。

彼はこの生き方について、「希望のまったくの不在」を前提にする、と書いています。しかもすぐに、それは絶望とはなんの関係もない、と念を押します。

彼の言う希望とは、さっきの「いつか」のことです。いつか、いい結果が今のきつさを取り返してくれるという期待です。彼はこれを、今から目をそらすための逃げ道だと考えました。なので、最初から前提の外に置いたのです。

「いつか」への逃げ道を閉じると、残るのは目の前の岩だけになります。意味を遠くに預けられないので、いま岩と取り組んでいる時間そのものが、人生のすべてになります。「闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりる」は、この流れの先にある結論です。

ここまでが彼の理屈です。で、ここからが私の話です。

私は一つだけ、彼と違うことをしたいのです。希望という言葉を、捨てたくありません。

「希望を外す」と言ってしまうと、「希望とは、いつか来るいい結果のことだ」という思い込みのほうは、無傷で残ります。私はその思い込みのほうを壊したいのです。

いま、岩を押している。そのこと自体に希望を置く。結果ではなく、押しているという動きそのものに置く。

押していること、生きて動いていること自体を、希望と呼んでいい。

彼が外した言葉を、同じ言葉のまま中身を入れ替えて使う。そのほうが、「希望=いい結果」という刷り込みをひっくり返せると思うのです。

③ どうすれば「何のため」が消えるのか

ここまで読んで、「無意味なものを幸福だなんて、思い込めない」と感じた方もいると思います。そのとおりです。

頭で「これは幸福なのだ」と言い聞かせても、無理があります。無意味さの上に幸福という札を貼っているだけなので、すぐはがれます。

ただ、札を貼らなくても、「何のため」が消えている時間は誰にでもあります。夢中になっている時間です。

子どものころ、鬼ごっこで捕まりそうなギリギリをかわしたとき、「これは何のためだろう」とは考えていませんでした。成功も評価もそこにはないのに、あの時間は幸福だったはずです。

北島康介さんの「チョー気持ちいい」も、頭で貼った札ではなく、身体が動ききった瞬間の気持ちよさだと思うのです。

夢中のあいだは、「これは何になるのか」と採点している自分がいません。採点する人がいないので、「無意味かもしれない」という問いも立ちようがないのです。

ただ、大人になると、この夢中が難しくなってきます。やる前に「これをやったら何になるのか」を考えて、結果が見えないと動けなくなります。

これは、あなたの心が弱いからではありません。

求めること自体は、人間だけのものではありません。すごく野生的な動物を思い浮かべてみてください。お腹が空いたとき、目の前にリンゴの木があって、リンゴがなっている。「あ、美味しそうだな」「あれは美味しいんだよな」というこれまでの経験が重なって、あれが欲しいという方向にドーパミンで駆り立てられます。すごく疲弊していて、お腹が空いていてもう動けない、エネルギーが枯渇しているという状態でも、疲労をいったん横にどかして、そのリンゴを取ることに集中できる。これがなければ、野生動物は飢えた状態でリンゴを取りに行けません。求める力そのものは、悪いものではないのです。

ただ、人間はいつからか、目の前のリンゴのような直接の対象ではなく、記号の結果を求めるようになりました。今の世の中が、何をするにも「で、それは何につながるの?」と採点してくるからです。子どもの遊びにさえ「何の力が育つか」という説明がつく時代です。成果を望むのは弱さではありません。社会そのものが、その採点のしかたを推奨しているからです。先に結果を考える癖がつくのは、当たり前なのです。

なので、夢中に「なろう」とがんばる方向は、たぶんうまくいきません。眠ろうとがんばると、かえって眠れないのと同じです。

ただ、眠りには打てる手があります。部屋を暗くすることです。眠りそのものは待つしかありませんが、来やすい状況は自分で整えられます。

夢中も同じで、選べるものが一つだけあります。注意の向け先です。「効き目」に向いている注意を、「気持ちよさ」に向け直します。

一つやってみましょう。片方の手で、もう片方の手をさすってみてください。

まず、「効いてるかな」と確かめながらさすります。あたたかくなったかな、ほぐれてきたかな、と確認しながらです。

次に、確かめるのをお休みして、ただ気持ちよくなるようにさすります。よしよしという感じで、気持ちいいところを探すだけです。

どうでしょうか。同じ「さする」なのに、二回目のほうが、手だけでなく全身がほどけてくる方が多いのではないかと思います。

一回目は、頭が「効いたか」を採点しています。なので、身体は少し身構えます。二回目は採点がないので、身体のほうが勝手に深めていってくれるのです。

セルフケアが続かない、という相談を、私は十七年の臨床でいちばん多く受けてきました。

続かないのは、あなたの意志が弱いからではありません。

「効いたか」で採点していると、効かなかった日に、やる理由がなくなります。それだけのことなのです。で、「気持ちよかったか」で帰るようにすると、だいたい毎日どこかしら気持ちいいので、続きます。

最後にもう一つだけ。毎日が「同じことの繰り返し」に見えるとき、同じだと感じているのは、頭のほうです。頭は結果で見るので、結果が同じなら「また同じか」になります。

ただ、身体は毎日少しずつ違います。今日の肩と昨日の肩は違いますし、今日のお風呂のお湯と昨日のお湯も違います。今日押す岩と昨日の岩も、よく感じれば違うのです。

注意を気持ちよさに向けるというのは、この「毎日違う」ほうの世界に帰ってくることでもあります。

というわけで

今日を一文に束ねます。むなしさの出口は、意味の答えを探すことではなく、注意の向け先を「効き目」から「気持ちよさ」に移すことです。

なので今日は一つだけ。何かをやったら、「効いたか」の採点を一回だけお休みして、「気持ちよかったか」で帰ってみてください。

今夜の一冊は、アルベール・カミュ『シーシュポスの神話』(清水徹訳・新潮文庫)でした。一九四二年の本です。彼が前提から外した「希望」を、私はあえて拾い直しました。無意味とわかっていることを、それでも夢中で押していく。それ自体を希望と呼んでみる。

今日一日が何かにつながったかどうかは、置いておきましょう。気持ちよかったら、それで成立です。のんべんだらりでいきましょう。

みなさんは、どう感じますか。

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