「本当の自分」は、どこにもいない。

親友の前では調子者なのに、職場では超真面目。恋人には甘えるのに、親の前では妙にそっけない。人によって態度が変わるたびに、ふと不安になる。「私って、軸がないのかな」。

この問いは、たいてい自分探しへの入口になる。自分探し。なんと甘美で、なんと不毛な旅だろう。

僕はこの旅を「迷宮入り」と呼んでいる。「本当の自分」なんてどこにもいない、と。

これだけ聞くと、ニヒリズムのように聞こえるかもしれない。でも、ちょっと待ってほしい。話はもう少し入り組んでいる。

二十世紀の哲学が達した最も重要な認識のひとつに、自己は関係のなかで立ち上がる、というものがある。マルティン・ブーバーは『我と汝』のなかで、「我」は「汝」との関係においてのみ存在すると述べた。レヴィナスは「他者の顔」こそが倫理の始まりだと言った。日本の哲学者・和辻哲郎は「間柄」という概念で、人間を関係的存在として捉え直している。

僕が臨床のなかで辿り着いた「関係的自己」という考え方は、こうした哲学の系譜に——自分でそこまで意識していたわけではないけれど——ぴたりと接続しているらしい。

大親友の前では安心してくだらない冗談を言えるリラックスモードの自分が引き出されている。厳しい上司の前では、緊張感から仕事モードの自分が現れてくる。母親の前では、甘えたい気持ちと自立したい気持ちがせめぎ合う、また別の自分が顔を出す。どちらも紛れもなくあなた自身なんですよ。

カメラのモードに喩えてもいい。場所や相手に合わせて、ホワイトバランスが自動調整されるように、人は関係のなかで異なるモードに切り替わる。それは「ブレ」ではなくて、適応。

ここで興味深いのは、この適応のメカニズムが身体レベルで起きている、ということ。

ミラーニューロン。一九九〇年代にイタリアのジャコモ・リゾラッティらが発見した神経細胞群。他者の行為を見ているだけで、自分がその行為をしているときと同じニューロンが発火する。他者の痛みを見て自分も痛みを感じたり、誰かのあくびがうつったりするのは、ミラーニューロンの作用。

僕はこの「ミラーリング」を臨床の核に据えている。緊張した身体は、相手を緊張させる。リラックスした身体は、相手をリラックスさせる。つまり、「自分」はつねに相手の身体状態との共鳴のなかで生成されている。固定された本質としての「自分」は、そもそも存在しない。あるのは、そのつどの関係のなかで引き出される、複数のバリエーションだけ。

では、「自分がわからない」と苦しんでいる人には何が起きているのか。

僕は「感覚遮断」という言葉を使っている。

慢性的なストレスが脳の処理容量を超えると、身体は自らの感覚信号を遮断する。これは生存メカニズムなんですよね。痛みや不快が持続的に入力されると、脳はその信号をシャットアウトすることで、とりあえず日常を回し続けようとする。肩が凝っているのに肩こりを感じない。胸が閉じているのに息苦しさに気づかない。

この遮断が深刻化すると、内的な羅針盤が失われる。自分が何を感じ、何を望み、何を恐れているのか——それを教えてくれるはずの身体からの信号が、届かなくなる。

そのとき人は、外側にアイデンティティの手がかりを求め始める。肩書き、年収、フォロワー数、他者の評価。これらは身体感覚の不在を埋める代替物。僕が「外部依存のアイデンティティ」と呼んでいるもの。

ここまで来ると、ダマシオの「ソマティック・マーカー仮説」が思い浮かぶ。アントニオ・ダマシオは、感情の身体的基盤を研究した神経科学者で、前頭葉に損傷を受けた患者が、知的能力は保たれているのに意思決定ができなくなることを発見している。なぜか。身体からの感情的フィードバック——ソマティック・マーカー——が失われたから。論理的に考えることはできても、「腹落ちする」感覚がないから、選べない。

僕が臨床で見てきた「自分がわからない」は、このダマシオの知見と地続きなんですよね。自分が何者かを知るためのナビゲーションシステムは、頭の中にではなく、身体の中にある。そのシステムが遮断されているから、迷子になる。

だから僕は、自分を「探す」のではなく、身体感覚を「取り戻す」ことを提案している。

ここにはアイロニカルな逆説がある。自分を見つけるためには、自分を探すことをやめなければならない。頭で考えることを手放し、身体が語り始めるのを待つ。

禅の公案に「主人公」というものがある。中国唐代の瑞巌師彦禅師は、毎日自分自身に向かって「おーい、主人公」と呼びかけ、「はい」と自分で答えていたという。「目を覚ましているか」「はい」「騙されるなよ」「はい、はい」。この奇妙な一人芝居は、「自分」が探すべき対象ではなく、いまここで応答する行為そのものであることを示している。

僕の身体論は、この禅的な知恵と通底しているように思える。自分とは、探し当てるべき宝物ではない。いまこの瞬間の身体の応答そのもの。呼吸が深くなったとき、肩の力が抜けたとき、足の裏が地面をたしかに踏んでいると感じたとき——そこに「自分」がいる。それ以上の根拠を求める必要はない。

僕がよく使う「身体の教養」という言葉がある。教養とは通常、知識の蓄積を指す。でも僕の言う教養は、知識とは逆の方向を向いている。身体の微細な信号を聴き取るリテラシー。原感覚——言語や感情が発生する以前に、身体の深部で生じている純粋な物理反応——の声を拾い上げる技術。それが「身体の教養」。

思考を分析したり世の中のことを学ぶコンテンツはたくさん溢れている。ところが身体の教養を学ぶ場所が極端に少ない。施術家として臨床に立っていて、そのことをずっと感じてきた。

ジェンドリンはこう書いている。「理論より以前に、人がどう生きるのか、どう感じるのか、どう考えるのかが先行する」と。理論は体験の後から来る。説明は体験の影にすぎない。

僕がクライアントに最初に聞くのは、「いま、身体のどこが温かいですか。どこが冷たいですか」という問い。哲学的な問いでもなく、心理学的な質問でもない。ただ、温度。ただ、感覚。

その問いに答えようとするとき、人は否応なく自分の身体に戻ってくる。そこにいる自分は、「本当の自分」ではないかもしれない。でも、少なくとも「いまここにいる自分」ではある。

それで十分なんですよ。

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