性格が悪いんじゃない。
夜空を見上げてごらん、と言われたとする。あなたは何を見るだろうか。
心理学を修めた人は、星の名前を言い当てるかもしれない。あれはシリウス、あれはベテルギウス。しかし、その夜空の沈黙と美しさそのものについて、心理学は何も語らない。統計的に処理されたデータは、あなたがいま胸の奥で感じている、あの「ひんやりとした広がり」のことを一切扱わないのである。
僕はよくこの比喩を使う。星の名前を知ることと、夜空の美しさに打たれることは、まるで別の営みなんですよね。
かつて僕自身、自分を知りたくて心理学の本を読み漁っていた時期がある。ところがある日、一冊の本のなかに「自分を知りたいなら心理学を学ぶのは間違っている」と書いてあるのを見つけて、衝撃を受けた。でも施術家として十七年間、三万人以上の身体に触れてきたいまなら、あの一文の意味がよくわかる。
モーリス・メルロ=ポンティ。二十世紀フランスの現象学者で、サルトルの盟友であり論敵でもあった人物。彼の主著『知覚の現象学』は、哲学の世界にひとつの転回をもたらしている。それまでの西洋哲学が「我思う、ゆえに我あり」というデカルト的な頭脳主義を軸にしていたのに対して、メルロ=ポンティは「身体こそが世界と自分をつなぐ主体である」と言い切った。
すっごくかっこいい人なんですけどね、この人。
僕なりに噛み砕くとこういうことになる。僕らが「僕」とか「私」と思っている自分——その思考というのは、身体が外界から得た情報を統合して、それがふっと意識の表面に浮上したとき、はじめて「考え」として捉えられるもの。つまり、身体の状態を変えないかぎり、思考もまたどうにもならない。
ところで、あなたは「性格が悪い人」に会ったことがあるだろうか。
いつもイライラしている。すぐに怒る。言い方がキツい。周囲はだいたい「あの人は性格が悪い」と片づける。本人もまた、「自分は心が狭いのかもしれない」と悩んでいたりする。
僕はこれを真正面から否定したい。性格の問題ではない。身体の問題なんですよ。
たとえば、空腹のときにイライラした経験は誰にでもあるだろう。睡眠不足が続けば、些細なことで腹が立つ。慢性的な腰痛を抱えている人は、笑顔が少なくなる。これらは「性格」の問題ではない。身体がストレスを抱え、その総量が閾値を超えたとき、精神は余裕を失う。ただそれだけのこと。
身体→感情→思考→行動。この順序を僕は一貫して主張している。心理学が採用してきた「思考→感情→行動」という図式は、因果の矢印が逆なんですよね。
高岡英夫という身体運動学の研究者がいる。高岡さんはイチローや宮本武蔵の身体を分析して、ある驚くべきことを発見している。一流のアスリートや武道家の立ち方は、赤ん坊の立ち方に近い、というのである。イチローが他の選手に比べてクターッ、ダラリと頼りなげに立っているのは、彼が立っちを始めたばかりの赤ん坊に身体構造として近いからなんですよね。
「力を抜く」ことの重要性。これは古今東西の身体文化が繰り返し発見してきたこと。能の世阿弥は「花」を論じるなかで、力みを捨てた先にある動きの質を語った。太極拳はまさに脱力の体系だし、合気道の開祖・植芝盛平は「力を使うな、気を使え」と言っている。
僕はこの系譜の上に立ちながら、「コリの起点」という仮説を臨床のなかで立てている。
筋緊張の出発点は首の付け根——頸部と肩の接合部にある。ここから首・肩・胸へとコリが波及していく。しかし根本の原因は、第一肋骨・第二肋骨の可動性が失われていること。つまり、首を揉んでもダメなんです。肋骨が動かないかぎり、コリは戻り続ける。
ここが面白い。なぜ肋骨は動かなくなるのか。「防御モード」なんですよね。身体が脅威を感じると、交感神経が亢進し、筋肉が硬直する。胸が閉じ、肋骨が固まり、呼吸が浅くなる。これは野生動物が捕食者に出会ったときと同じ反応。問題は、現代人がこの防御モードを慢性的に発動させていることにある。上司のメール、満員電車、SNSの炎上。身体はそのたびに「閉ざされ」ていく。
僕はこの状態を「身体性不合理」と呼んでいる。重力環境下でエネルギー効率の悪い身体運用のこと。逆に、骨格で自然に立ち、不要な筋緊張がない状態を「身体性合理性」と呼ぶ。
そしてこの身体性不合理の蓄積が、感情のパターンを歪め、思考を暴走させ、対人関係を悪化させ、ついには「あの人は性格が悪い」という烙印を押されるに至る。
ユージン・ジェンドリンというアメリカの哲学者・心理学者がいた。カール・ロジャーズの弟子であり、「フォーカシング」の創始者として知られる人物。ジェンドリンは「フェルトセンス」という概念を提唱している。言葉になる手前の、身体の奥にある曖昧だが確かな感覚。僕が「原感覚」と呼んでいるものは、このフェルトセンスとかなりの部分で重なっている。
ただし、僕がジェンドリンと異なるのは、言語化のプロセスをさほど重視しないところ。ジェンドリンは体験を言葉にすることで前進が起こると考えたけれど、僕は言語以前の身体運動による直接的な変容を志向している。美味しいものを食べたとき、なぜ美味しいのかと問われても「そう感じたから」としか言えない。それを言葉で説明しようとすればするほど、感じた美味しさからはどんどん遠ざかるんですよね。
性格は、変えるものではない。身体の状態が変われば、人はおのずと変わる。
十七年間の臨床の中で僕が見てきたのは、身体が「開かれ」たとき、人が驚くほど穏やかになり、柔らかくなり、面白くなっていく姿だった。性格が変わったのではない。身体が合理的な状態に戻っただけ。その人の本来の状態が、やっと現れただけなんですよ。
星の名前を覚える前に、まず夜空を見上げること。僕が繰り返し言っていることは、突き詰めればそういうことなのだと思う。

