「前を向こう」は、ときに暴力になる。

アンジェラ・ダックワースの『GRIT——やり抜く力』が日本で翻訳されたのは二〇一六年のことだった。たちまちベストセラーになり、教育現場でもビジネスの場でも「やり抜く力」がもてはやされた。コンフォートゾーンを出ろ。脳を騙せ。決めたことをやり切れ。自己啓発の棚は、いまも似たようなメッセージで溢れている。

僕はこれらの言葉を聞くたびに、臨床家として背筋が凍る思いがする。

なぜか。十七年間、僕の施術台に横たわった人たちのなかに、まさにそうやって「やり抜いた」果てに壊れた人たちが、何人もいたから。ある日突然、電車に乗れなくなる。朝、ベッドから起き上がれなくなる。理由もわからず涙が止まらなくなる。適応障害、うつ、パニック障害。

彼らの身体に共通していたのは、途方もない硬さだった。肩はガチガチに固まり、胸は閉じ、呼吸は浅く速く、夜になっても頭の中で思考がグルグルと回り続けていた。身体はずっと前から警告を出していた。でも、その声は「甘え」や「根性なし」として押さえ込まれていたんですよね。

ここで、ひとつの比喩が思い浮かぶ。

車のアクセルをベタ踏みしたまま、ダッシュボードの警告灯をガムテープで隠しているようなもの。エンジンが焼けるのは、時間の問題。

僕はこの状態を、意志と身体の乖離、と捉えている。

意志の力だけで走り続けるとはどういうことか。身体が発する「止まれ」の信号を、思考で上書きし続けること。身体は収縮し、冷え、固まっている。それは僕の言う「原感覚」のレベルで「不快」のサインが出ている状態。にもかかわらず、頭は「まだやれる」「ここで止めたら負けだ」と言い続ける。

この構造は、じつは「励まし」にも同じように当てはまる。

落ち込んでいる人に「大丈夫、ポジティブに考えよう」と声をかけること。自分自身に「いつまでも落ち込んでちゃダメだ」と言い聞かせること。僕はこれを「励ましという暴力」と呼んでいる。

言い換えれば、「自分の正直な身体感覚に蓋をしろ」と言っているに等しい。身体は悲しい、辛い、とサインを出している。呼吸が浅くなり、胸が重くなり、お腹が固まっている。それは身体が「ここが傷ついている」と教えてくれている信号。その信号を無視して「ポジティブに」と言うのは、怪我をして血が出ているのに絆創膏を貼って「はい、オッケー」としているようなもの。

スティーヴン・ポージェスのポリヴェーガル理論が、ここでは補助線になる。

ポージェスは自律神経系を三つの階層で捉えた。最も古い背側迷走神経(凍結反応)、次に交感神経系(闘争・逃走)、そして最も新しい腹側迷走神経(社会的関わり)。脅威に対する身体の反応は、この三層構造のなかで自動的に選択される。ポージェスはこのプロセスを「ニューロセプション」と呼んでいる。意識より前に、身体が安全か危険かを判定しているということ。

僕が「原感覚」と呼んでいるものは、このニューロセプションと深く重なる。快・不快は気まぐれではなく、生存のために合理的にデザインされたシステムなんですよね。身体が「不快」と報告しているとき、それは「いまの状態を続けるな」という進化的な警告。

この警告を無視する文化が、いま社会を覆っている。

「思考」と「意志」と「根性」を過剰に評価する文化。「ネガティブ」を排除し、「ポジティブ」であることを正義とする文化。この文化のなかでは、身体の声は「弱さ」として処理される。泣くことは「メンタルが弱い」と見なされ、休むことは「サボり」と同義になる。

でも僕は、ここで安易な「身体至上主義」にも流れたくない。

「身体の声だけに従えばいい」とは思わない。身体の声と精神の声、その両方を大事にできることが人間らしい行為なんですよね。ガソリンがないのにアクセルを踏むのは愚かだけれど、ガソリンがあるのに走らないのもまた生きることにはならない。

問題は順序。

僕が「正しい順序」として提案しているのは、こういうこと。まず、身体が発しているネガティブな信号を、正当なものとして受け止める。「悲しいんだな」「辛いんだな」と、その感覚をそのまま感じる。蓋をしない。否定しない。急いで解決しようとしない。すると身体の中で、少しずつ処理が進み始める。

ここにはジェンドリンの知見とも通底するものがある。ジェンドリンは「人とワークすることの本質は、生きている存在としてそこにいること」と書いた。テクニックでもメソッドでもない。ただ、そこに居ること。フォーカシングであれリフレクションであれ、それを二人の間に挟みこんではならない——ジェンドリンの言葉はそう続く。

僕の臨床も、おそらく同じ原理で動いている。クライアントの身体が語り始めるのを、黙って待つ。前を向かせようとしない。ポジティブに引き上げようとしない。身体が自分のタイミングで回復に向かうのを、ただ信頼する。

「前を向く」のは、身体がそのタイミングを教えてくれる。思考で決めるものではない。

この一文に、僕の考えのエッセンスが凝縮されていると思う。

愛や感謝もまた同じ。「愛が大事」「感謝しなさい」と言われても正直よくわからないのは当然で、それらは抽象的な概念ではなく、身体の組織化の状態だから。自律神経系が適切に統合され、身体が「開かれ」た状態にあるとき、愛や感謝は思考としてではなく体験として自然に立ち上がる。身体の統合なしに「感謝しよう」と頭で思うのは、見たこともないオカルトを空想で楽しむようなもの。

本来、人を幸せにするための言葉が、人を苦しめている。

この逆説に気づくだけでも、身体への態度は変わるだろう。いま、あなたの呼吸はどうなっているか。胸は開いているか、閉じているか。身体のどこかに、温かい場所と冷たい場所があるか。

その感覚に蓋をしないでほしい。

日本語には「腹が据わる」「胸を張る」「肝が太い」「腰が引ける」と、身体を使った表現が世界の言語のなかでもとりわけ多い。高岡英夫はこれを指摘して、日本語という言語そのものが身体意識を形成してきたと論じている。言葉が身体を作り、身体が言葉を生む。その循環のなかに、僕たちはいる。

「前を向こう」という言葉が暴力になるとき、それは身体の声を言葉が踏みにじっている瞬間なんですよね。

身体の声は、いつだって正直。その声に耳を傾けることが、本当の意味での強さなのだと思う。

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