学んでも変わらないのは、学び方の問題ではない

身体知の書庫 令和8年3月

学んでも変わらないのは、学び方の問題ではない

ドナルド・ショーンの実践知と、身体図式を迂回する教示

今夜の一冊
省察的実践とは何か──プロフェッショナルの行為と思考
ドナルド・ショーン──MIT教授。専門職の知のあり方を根底から問い直し、「行為の中の知」を提唱した。1983年刊。
手がかり 1
身体図式
意識せず使っている身体の自動パターン。「目的」のレベルで組織されている
手がかり 2
点と線の教示
「肩の力を抜いて」は点。「鎖骨の外側端を滑らせて」は線。線は身体図式を迂回する
手がかり 3
マスキングの快
セミナー後の高揚は身体が変わった快か、脳の報酬系を刺激しただけの快か
因果の流れ
技術の蓄積 身体図式の固着 「点」の教示では変わらない 「線」の教示で迂回 探索モード 原感覚がナビゲート 身体を通過した知

技術を学んだ。セミナーに通った。それでも臨床が変わらないとき、問題は学び方ではなく、身体にある。

「技術は学んだんです。解剖学も、手技も、ひと通りやってきた。でも、ここから先が見えないんです」

施術者やセラピストの方が、あるとき施術室で似たようなことを口にする。この言葉を聞くたびに、私は少し黙る。黙るのは、答えがないからではない。答えが、言葉では渡しにくいものだからだ。

先日も、ひとりのセラピストが施術を受けに来た。開業して五年。技術的にはクライアントからの信頼もある。勉強熱心で、新しい手技のセミナーには年に何度も足を運ぶ。しかし最近、施術中に「これでいいのだろうか」という感覚が消えないのだという。手は動いている。クライアントも「楽になりました」と言ってくれる。それなのに、何かが足りない。

身体に触れさせてもらうと、あることに気づいた。この方の身体は、「施術者の身体」として固まっていた。肩は下がっている。姿勢は整っている。一見するとリラックスしているように見える。しかし、それは「力を抜いている」のではなく、「力を抜いた形を保っている」状態だった。呼吸は胸郭の上部に留まり、横隔膜の自由な動きが制限されていた。

この方は、身体で「施術者であること」を演じ続けていたのだ。しかもそれに気づいていなかった。「これでいいのだろうか」という感覚は、頭から来ていたのではないと思う。身体が、何かがずれていることを知っていた。しかし本人はそのずれを「技術の不足」として解釈し、もっと技術を学ぼうとしていた。

「点」の教示と「線」の教示

なぜ、学んでも変わらないのか。ここに、身体の構造が関わっている。

人間の身体には「身体図式」と呼ばれるものがある。意識せずに使っている身体の自動パターンだ。歩くとき、いちいち「右足を前に」と考える人はいない。身体図式が自動的に処理している。重要なのは、身体図式は「目的」のレベルで組織されているということだ。

「肩の力を抜いて」と言われたとき、何が起きるか。「肩の力を抜く」という目的が与えられると、身体図式の中にある「肩の力を抜くパターン」が起動する。しかしそのパターン自体が、すでに長い年月をかけて固着したものなのだ。固着したパターンで「力を抜く」を実行するから、結局同じ場所に戻る。

ここに、臨床の中でたどり着いた一つの区別がある。

「肩の力を抜いて」は、「点」の教示と呼べるものだ。行為の目的──何をするか──を指定する。一方、「鎖骨の外側端を、ほんの少し前方に滑らせてみてください」という教示は、まったく別の座標で動いている。これは「線」の教示だ。解剖学的な構造──骨の位置、関節の動きの方向──を指定している。

「線」の教示には、身体図式が反応しない。「鎖骨の外側端を滑らせる」という自動パターンは誰の身体にも存在しないからだ。だから身体は探索モードに入る。固着したパターンが起動しないから、身体は新しい動きを「探す」ことになる。ここで初めて、知識が身体を通過し始める。

快を、羅針盤にする

探索モードに入った身体は、何を手がかりに動くのか。

ある方向に動かしたとき「あ、気持ちいい」と感じる瞬間がある。あるいは「何か詰まっている感じがする」と不快を感じる。その快と不快の傾きが、動きの方向を教えてくれる。テキストに正解が書いてあるのではない。自分の身体が、リアルタイムで答えを出している。

ただし、快には二つの様態がある。身体の物理的な状態が合理的な方向に動いているときに立ち上がる快と、身体の不快を一時的に覆い隠す快──マスキングの快だ。

セミナーの直後に「これで変われる」と感じた高揚。あの感覚がどちらだったのかを振り返ってみてほしい。そのとき呼吸が深くなり、肩が少し下がっていたなら、それは知識が身体を通過し始めていた可能性がある。しかし、頭だけが興奮して身体は変わっていなかったとしたら、その高揚は二ヶ月で消えるかもしれない。

MITのドナルド・ショーンは、実践者の知を「技術の適用」から解放しようとした人だ。彼が「行為の中の知」と呼んだもの──手が触れた瞬間に身体がすでに知っていること──は、この「線」の教示と探索モードの先に開かれるものだと私は読んでいる。記事06で触れたジェンドリンの「暗在性」とも、ここで交差する。

学びの市場が再生産する構造

ここで個人の問題から、少し視点を引いてみたい。

ほとんどのセミナーは「点」の教示で構成されている。「こうやって触れましょう」「クライアントの呼吸に合わせて」。受講者の身体図式は、自分の持っているパターンでそれを実行する。知識は増える。しかし身体は変わらない。

なぜセミナーがこの構造に偏るのか。「すぐに使える技術」「明日から臨床に活かせるスキル」──これはセミナー市場が最も売りやすい商品だ。身体が変わるには時間がかかる。しかし「時間がかかる」は、商品として売りにくい。結果として、市場は「点」の教示を量産し、受講者は「点」を集め続ける。

セミナーに通い続けても変わらないのは、あなたの学び方が悪いのではない。学びの市場そのものが、身体を通過しない構造を再生産しているのではないか。

あなたの身体は、臨床にすでに現れている

そしてもうひとつ、見落とされやすいことがある。

支援者自身の身体の状態は、クライアントに伝わっている。メルロ=ポンティが「間身体性」と呼んだ現象──身体と身体は最初から切り離されていない。支援者が緊張していれば、その緊張はクライアントに伝わりやすい。手技が正確でも、支援者の身体が閉じていれば、クライアントの身体はそれを受け取っている可能性がある。

冒頭のセラピストの身体が「施術者の形に固まっていた」のは、技術を積み上げた帰結だったのだと思う。正しい姿勢、正しい力加減、正しい手の使い方。「正しさ」を身体に書き込み続けた結果、身体は自由を失い、形として硬直していた。

自分の身体を感じること、自分の身体を信頼すること。これは自分のためだけではない。間身体性を通じて、あなたの身体の開かれは、クライアントにとっての安全な環境にもなりうる。

施術者としての壁の前に立っている方がいるとしたら、その壁は技術の壁ではないかもしれない。技術の先にあるのは、さらなる技術ではない。あなた自身の身体だ。ただ、まだ触れていないだけだ。

前へ
前へ

「自分がわからない」のは、頭のせいではない

次へ
次へ

約束を守れない、という身体──國分功一郎と、意志の手前にあるもの