あなたの感情は、金に変えられている──山田陽子と、身体が問われない時代の構造
あなたの感情は、金に変えられている
山田陽子と、身体が問われない時代の構造
しかし感情資本主義は、この順序を反転させている
「いいと思います。ランニングもしてますし、筋トレもしてますし。……良いと、思います」
──身体が感じていることを、自分の言葉として引き受けられないでいる。
あなたの感情は、金に変えられている。
大げさに聞こえるかもしれない。しかし少し立ち止まって、周りを見てみてほしい。
アンガーマネジメント。ウェルビーイング経営。マインドフルネス・プログラム。レジリエンス研修。──企業でこうした言葉を聞かない日のほうが、少なくなった。社員の「癒し」のプロセスが「仕事」の中に組み込まれ、感情は「管理できるもの」として扱われ、管理できる人間が「優秀」とされる。
共感力、コミュニケーション能力、レジリエンス。これらは本来、人と人のあいだで自然に生じるものだったのではないだろうか。しかし人事評価の項目に載った瞬間、「できる/できない」で測定されるスキルに変わる。感じることが、いつの間にか管理することに置き換わっている。無理もない。そもそもこの経済社会、資本主義さえも、心を持った私たちによって成し得ているものなのだから。
時を同じくして、「感情をコントロールすれば人生が変わる」──このような言い回しを、よく耳にするようになった。怒りを抑えるアンガーマネジメント。仕事へ熱意を持て。熱中しろ。しかしここで語られる「人生が変わる」の中身は、多くの場合、年収、キャリア、ポジションといった経済的な変化ではないだろうか。全てがそうではないだろう。実際私もそうした熱意あるかっこいい上司のもとで働いたこともある。実に熱心で、部下の私の胸を打ち、対人支援という仕事が人生の中でここまで大きくなったのもその人のおかげだ。そしてその人は、売上向上のために行っていたのではないとはっきり言える。しかし問題は、構造だ。ほとんどの社会人として生きる私たちにとって、感情の充実そのものではなく、感情をうまく扱える人間が経済的に有利になる、という「構造」になっている。
感情が「資本」として動員される
この状況に名前をつけた人がいる。
社会学者エヴァ・イルーズは、2007年に出版した『Cold Intimacies: The Making of Emotional Capitalism』の中で、ある構造を指摘した。近代の経済社会において、感情は邪魔者として排除されたのではない。むしろ逆で、感情は積極的に動員され、経済を回すための資本として投入されるようになった──と。
たとえば「共感力が高い社員は成果を出す」と言われるとき、共感力は人間としての自然な在り方ではなく、成果に貢献するリソースとして位置づけられている。「前向きな感情は生産性を高める」と言われるとき、前向きさは心の状態ではなく、組織のパフォーマンスに投入される燃料になっている。感情が、経済の中に組み込まれ、資本のように使われている。みんなと仲良く出来る者、ポジティブで熱意ある者は価値があり、資本であるというわけだ。イルーズはこのプロセスを「感情資本主義」と呼んだ。
そしてイルーズは、もうひとつ重要なことを見抜いていた。この構造の中に「治療的エートス」とでも呼ぶべき「社会人の心得」、「当たり前の作法」──「規範」が浸透しているということ。自分の感情を自分で管理し、改善し続けることが善である──この考え方が、もはや疑われることすらなくなっている。怒りを感じたら管理する。ストレスを感じたら対処する。ネガティブになったら修正する。感情を「よりよい状態」に保つこと自体が、私たちの義務のようになっている。
山田陽子『働く人のための感情資本論』(青土社、2019年)は、大阪大学で感情社会学を研究する著者が、イルーズのこの枠組みを日本の職場に引きつけて展開した一冊になる。アンガーマネジメント、心理的安全、レジリエンス──日本の企業に急速に浸透しつつあるこれらの技法が、感情を人的資源の一部として管理する装置になっている実態を、山田は丹念に追っている。
ここで立ち止まって考えてみたい。本来の順序は、こうだったはずではないか。身体が感じる。感情が動く。人が動く。結果としてモノや金が動く。しかし感情資本主義は、この順序を反転させているように見える。経済の論理が先にあり、そこに感情が動員される。「前向きな感情は生産性を高める」「ネガティブな感情はパフォーマンスを下げる」──こうした言い回しの中で、感情はいつの間にか、成果を生むための燃料になっていく。
カバナスとイルーズの共著『ハッピークラシー』(みすず書房、2022年)は、この反転をさらに鋭く描いている。「前向きでハッピーな人が成功する」──この言い回しは、構造的な問題を個人の心理に押し込め、幸せの階層社会を生んでいるのではないか、と。成功しない人は、前向きさが足りないから。幸せでない人は、心の持ちようが悪いから。──構造の問題が、個人の感情の問題にすり替えられていく。
「いいと思います」
この構造の中で、ソマティックスタジオのメンバーの方から相談を受けた。
その方は、毎朝五時に起きてランニングをし、週三回の筋トレを欠かさず、健康診断で引っかかったことは一度もなかった。コーチングを受けて目標を設定し、認知を書き換え、転職して年収が上がり、資格も取った。
「調子はどうですか」と聞くと、少し間があった。
「いいと思います。ランニングもしてますし、筋トレもしてますし。……良いと、思います」
この「思います」に、私は引っかかった。
身体に触れると、元気な割には随分と固く感じる。腹診で見る症もなかなかに荒れていて、本人からの話も合わせると自他共に頑張り屋さんであることは納得がいった。さぞかし苦しい思いをしているのかと思うが、そんなこともないらしい。なぜ僕のところに来たんだろう?とよぎりそうにもなるが、こんなことはよくあることで、何かしら滞りを感じているからここに来ているのだろう。慌てずに僕は自分の構えを崩さないように推察と問診を繰り返す。段々とクライアントにわく興味が膨れ上がるこの感覚も、対人支援の楽しいところである。
しんどい時はあるのか?との問いを投げるが、やるしかないんで、とのこと。気合が入っている。体に触れるまでもなく、口をキュッと閉める締まった表情。すかさず反転した問いを投げたくなる。リラックスできる瞬間はある?
「あんまりないかもしれない。常に動いていないとダメな性分なんです。だから、年齢的にもケアしておいた方がいいかなって思って。」
この方は毎朝走り、身体を使っている。身体が何も感じていないわけではないだろう。おそらく走っているとき、身体は何かを感じている。問題は、その手触りを──身体が感じている「いい」を──確信に変えられないでいることだった。
先のこのクライアントの回答は、「プロに見てもらうことでOK」というある意味の「実感の外注」だった。極端に言えば、体温計がないと熱があるかわからない。痛みがなくても、骨折と言われれば入院する。少し意地悪な極端かかもしれないが、レベルが違うだけで同じことでもある。身体性を専門とする身としては、まさにこの部分が治療すべき根っこと思っている。
素直でとっても素敵な、気立の良い女性。これまでの経験や身の上話も、純粋な会話の応酬からも、とても問題があるようには見えない。しかし、チェックリストの「いい」に頼ることでしか、「いい」を口にできない。身体が感じていることを、自分の言葉として引き受けられないでいる。
感情が先にデザインされている
ここで感情資本主義の話に戻りたい。
この方だけの話ではない。臨床で似たような場面に繰り返し出会う。ランニングをしている。筋トレをしている。健康診断は異常なし。だから「いい」。──しかしこの「いい」は、身体が生きているど真ん中で感じている「いい」ではなく、チェックリストを通過した「いい」ではないだろうか。主観的な実感ではなく、外から得られる客観的な評価。
感情資本主義の構造の中では、身体すらも評価指標に変わっていく。走った距離、消費カロリー、睡眠スコア。身体に触れて感じることではなく、数字を通じて身体を「管理する」ことが健康とされる。身体が評価されるものになっている。
「感情をコントロールすれば人生が変わる」「成長し続けるべきだ」「居心地の悪さに耐えるべきだ」「ポジティブであるべきだ」──こうした言い回しは空気のように私たちの中に沈み込んでいて、ほとんど誰も疑わない。
しかし考えてみてほしい。そこで感じている「成長したい」「変わりたい」「もっと頑張りたい」という感情は、本当にあなた自身の身体から湧き上がったものだろうか。それとも、「成長するべきだ」「前向きであるべきだ」という規範が先にあり、その枠の中で感じさせられているものだろうか。
イルーズが描いたのは、まさにこの構造だった。感情が排除されるのではない。むしろ感情は積極的に喚起され、方向づけられ、経済の中に組み込まれていく。怒りを管理し、前向きさを維持し、共感力を発揮する──それができる人間が評価される仕組みの中で、「どう感じるべきか」があらかじめデザインされている。
この枠にいる間は、「成長しなくて良い」も「頑張らなくて良い」も、負け犬の遠吠えにしか聞こえない。じゃあやってみろよ、という枠の中からのマウント取りしかできないのだ。悪い人間でないにも関わらず、そうした態度を取るしかない「構造」になっている。
あなたの感情は、あなたのものだろうか
感情資本主義は、私たちの感情を金に変えている。しかしそのことに気づくのは難しい。
なぜなら、そこで感じている感情は「偽物」ではないからではないだろうか。
前向きになれたとき、本当にすっきりする。目標を達成したとき、本当にうれしい。怒りを抑えられたとき、本当に大人になった気がする。それは嘘ではない。身体も実際に反応している。しかしその感情が、「前向きであるべきだ」「成長するべきだ」「感情を管理できる人間が優秀だ」という構造の中であらかじめ方向づけられたものだとしたら──その感情は、あなたのものだろうか。それとも、あなたの感情を燃料にして回っている構造のものだろうか。
厄介なのは、この問いを立てること自体が難しいということではないかと思う。構造の中にいる限り、構造が見えない。「もっと頑張るべきだ」「現状に満足するべきではない」という声は、いつも正しく聞こえる。論理がある。成功事例がある。数字がある。そしてその声に従ったとき、実際にすっきりする。達成感がある。周囲にも認められる。──だから疑えない。
臨床の現場で繰り返し出会うのは、身体が何かを感じているのに、それを自分のものとして受け取れないでいる人の姿ではないかと感じている。身体の手触りには、名前がない。数字にならない。成果として報告できない。「なんとなく、今の感じが悪くない気がする」──それだけでは、「もっと頑張るべきだ」の声に太刀打ちできない。
冒頭のあの方も、身体は何かを感じていたはずだろう。毎朝走っているとき、風を感じていたはずだろう。しかしそれを「これでいい」と自分の中に受け取ることが、できないでいた。「いい」を口にするためには、チェックリストが必要だった。
あなたが今感じている「もっと成長したい」「現状に満足してはいけない」「このままではだめだ」──その感情は、あなたの身体から湧き上がったものだろうか。
それとも、誰かにそう感じるように仕向けられたものかもしれない。

